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<戦後71年>戦地に散った父の足跡探し青森に

慰霊祭後に父の戦友らと歓談する中野さん(左端)
父の要さん(後列左)の出征前に新京で撮った家族写真。前列左が中野さん

 第2次世界大戦中、旧満州(中国東北部)のアルシャンで国境警備を担った関東軍第107師団の元兵士や遺族らによる「アルシャン駐屯部隊戦友会」が青森市で56回目の慰霊祭を開いた。同師団の兵士で、1945年8月13日に旧ソ連軍と交戦中に36歳で亡くなった中江要さんの長女中野典子さん(74)=東京都豊島区=も初めて参加し、父の足跡をたどった。
 慰霊祭後、野砲兵として前線で戦った木島久雄さん(91)=由利本荘市=は「5メートル前方にいた隊長らが砲弾を受け、跡形もなく死んだ。私は頭を銃撃されたが、運良く生き延びた」と戦地の惨状を語った。父親のことを想像した中野さんは「もっと生きたい、と心を残したまま最期を迎えたのかな」と目頭を押さえた。
 中野さんは満州鉄道の関連会社に勤めていた要さん、母、弟と4人で旧満州の新京(現・吉林省長春)で暮らした。45年5月に要さんが出征。当時3歳だった中野さんは「記憶がおぼろげでよく覚えていない」と言う。
 新京からの引き揚げ時は2歳下の弟を背負う母に手を引かれ、徒歩と列車で移動した。わずかな日用品しか持ち出せず、手元に残ったのは出征前に撮影した家族写真1枚のみ。要さんの形見は一切なく、遺骨も見つかっていない。戦死した日付や場所が分かったのは終戦後10年以上たってからだった。
 中野さんが父の足跡を探し始めたのは、4年前に母が亡くなり、遺品から要さんの名前と部隊名が記された戦死者名簿を見つけたのがきっかけだった。「知りたい気持ちはずっとあったが、日々の暮らしで精いっぱいで余裕がなかった」と話す。
 手掛かりを求めたが、東京のアルシャン駐屯部隊関係者らの団体は8年前に解散し、資料は廃棄されていた。親族の助言で青森市に問い合わせ、今年7月に戦友会を知り、ようやく当時の様子に触れた。
 「戦友の人たちに会って父が生きた時代を実感できた。もっと早く知って気持ちを酌んであげたかった」
 遺族で戦友会会長の角田和彦さん(81)=塩釜市=は「アルシャンは激戦地で生き延びた人があまりおらず、資料が少ない。手掛かりを探している人はまだたくさんいるはずだ」と指摘。「若い人に戦争の悲惨さや不条理さを伝えるためにも慰霊祭を続けていく」と力を込める。

[第107師団]1942年1月に創設された旧満州のアルシャン駐屯部隊を増強する目的で、44年5月に同部隊を中心として編成された。青森、岩手、秋田3県の出身者を中心に構成し、弘前市からアルシャンへ送られた。45年8月9日、新京への後退中に対日参戦した旧ソ連軍と交戦。暗号解読書の廃棄などで終戦と停戦命令が伝わらず、同月29日まで戦闘を続けて多数の戦死者を出した。武装解除後に多くがシベリアに抑留され、抑留後の戦病死を含む戦没者は5179人。うち3025人が東北6県の犠牲者だったとされる。90年、青森市幸畑の「八甲田雪中行軍遭難資料館」に隣接する幸畑墓苑に石碑が建立された。


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2016年08月31日水曜日


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