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<3.11と今>娘の遺影に再建誓う

本格再建する店の看板設置作業を見届ける敬一さん(左から2人目)と節子さん(左端)=8月25日、気仙沼市鹿折地区
仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」で営業していたころの(左から)敬一さん、節子さん、悦子さん=2012年7月9日、気仙沼市

 被災した商店主らが商売を再開させた仮設店舗は、街の復興が進むにつれて役割を終える時期が迫る。店を本格再建するかどうか。震災から5年半。さまざまな思いを抱える商店主らは、再び決断の岐路に立つ。

◎震災5年半 岐路に立つ(1)米穀店「斉新商店」斉藤敬一さん、節子さん=気仙沼市

 完成間近の店に掲げられた看板は縦90センチ、横4メートルの特大サイズ。「ここで商売する」。そう叫んでいるようだ。
 「長かったな」。斉藤敬一さん(69)がつぶやいた。宮城県気仙沼市鹿折地区のかさ上げ工事を終えた造成地に今月、夫婦で暮らす自宅を兼ねた米穀店「斉新米店」を本格再建する。
 妻の節子さん(67)が応じた。「看板の文字のように黒字にしないとね」
 東日本大震災があった年の6月に倉庫で仮営業を始め、翌年からこれまで2カ所の仮設商店街を転々としながら商売を続けた。新しい住宅兼店舗のそばには災害公営住宅も完成し、「まちびらき」の時を迎える。夫婦は店を見詰めて思う。
 「あの子がいてくれたら、一番喜んでいるに違いない」

 鹿折地区は津波と流出した油で火の海になり、斉藤さんの自宅と店、貸家は跡形もなくなった。仮設住宅で暮らしながら商売を再開したが敬一さんは心臓が悪く、節子さんも震災直後、被災地を歩いて油分を吸い込み、肺に大病を患った。
 「こんにちは、いつもどうも」。朗らかに客に声を掛け、夫婦を支えたのが、長女の悦子さん。いわき短大(いわき市)を卒業後に家業を手伝い、小売りや配達、宅配便とクリーニングの代理店を切り盛りした。
 支援物資をもらうと、お礼に趣味の手芸品を贈るのを忘れなかった。帆布を縫ったバッグは150個も作った。「店を再建したら災害公営住宅を歩いて注文を取ろうよ」。そう励ましていた悦子さんが急性心筋梗塞で倒れたのは昨年1月17日。39歳だった。
 夫婦は眠れなくなった。休みのたびに寺を巡り、「あのおしゃべりが黙って逝ったから」と、郡山市で会社勤めをする長男(36)とむつ市の霊場・恐山のいたこを訪ね、「声」を聞いたこともあった。
 
 店に続き、大事な跡取り娘を失っても、商売をやめようとは思わなかった。
 鹿折地区には同業者が6軒あったが、震災を機に廃業し、残るは自分の店のみ。コメや灯油を配達する地域密着の店がないと、困るお年寄りもいる。
 「年金の手取りは2人で月10万円にしかならない。体力が続く限り商売しよう」。娘も望んでいたことだと思った。
 鹿折地区の商店街は「かもめ通り」の愛称で32店が営んでいたが、休廃業や移転が相次いだ。区画整理され、先行して引き渡された造成地には自分の店をはじめ、魚屋、海苔(のり)販売店、写真店、衣料品店、食堂の6店が再建する。
 家族が目指したのは、昭和一桁から3代続く店を親娘3人で再興すること。完全な形にはならない。それでも夫婦は「みんな、つらさを抱えている。震災で私たちは少し強くなったでば」と気丈に振る舞う。
 毎朝、悦子さんの位牌(いはい)を仮設住宅から仮設店舗に持っていくのが、夫婦の日課だった。「もうすぐ、落ち着く場所ができるよ」。にぎわう街を想像する。遺影の中の娘が、ほほ笑んでいる。(高橋鉄男)


2016年09月07日水曜日


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