岩手のニュース

<3.11と今>横丁の人情 守りたい

看板メニューのみそおでんを客に出す菊池さん=8月29日、釜石市鈴子町
震災前、店の前に立つ菊池さん=2009年6月

◎震災5年半 岐路に立つ(2)居酒屋「お恵」菊池悠子さん=釜石市

 7人も入ればいっぱいになる店のカウンターの向こうで、名物ママが寂しそうな表情を見せる。
 「みんなで一緒に店を続けたかったけど、仕方がない。でも別れ別れは、やっぱりやだね」
 岩手県釜石市の「呑(の)ん兵衛(べえ)横丁」で、開店54年目の居酒屋「お恵」を1人で切り盛りする菊池悠子さん(77)。市中心部にあった横丁は津波で全26店が流失し、現在はJR釜石駅西の別の場所にある仮設店舗で、12店が営業する。
 横丁で最古参の菊池さんは今年、大きな決断を迫られた。市は仮設を2017年度末までに撤去する方針を示し、市中心部に整備する飲食店街への出店を募った。横丁の組合長でもある菊池さんも説明会に足を運び、仲間と悩み抜いた。
 仮設にはなかった月々の賃料が発生し、設備工事費もかかる。店主の平均年齢は約70歳と高齢だ。無理に借金をしても、この先何年商売できるか分からない。
 次第に仲間たちは慎重になった。市内では空き店舗が不足し、賃料も高騰。仮設に残っても撤去後は行き場が無く、横丁の存続は不可能だ。
 厳しい現実とのはざまで揺れ続け、出店を決めたのは4店にとどまった。菊池さんは見送った。「自分の年齢もお金のこともあっけど、移らない店の方が多かったから。何十年も一緒にやってきた仲間を置いていけない」と言い切る。

 戦後の1950年代に始まり、約100メートルの長屋に30店以上が軒を連ねた横丁。「お恵」を開店した63年は、「近代製鉄発祥の地」釜石で栄えた製鉄所の最盛期だった。午後4時半になると、店は勤務を終えた男たちであふれた。
 「製鉄所の人たちは羽振りが良く、給料入りの茶封筒が立つほどだった。お酒もばんばん注文が来て、燗(かん)をした記憶がないよ」
 やがて鉄鋼不況を受けた会社の合理化が始まり、大量の労働者が市外へ転出。89年には最後の高炉の火が消えた。客足が落ちた横丁を、津波は跡形もなく押し流した。
 菊池さんは一時、廃業を考えたが、常連客の相次ぐ電話に励まされた。自宅で何もせずに過ごす日々にも耐えられなくなった。
 「やっぱり店が好きなんだ。お客さんと話すのが楽しいもの」。横丁の仲間と連絡を取り合い、2011年12月に営業を再開した。客同士が「生きてたか」と無事を喜び合った。
 身近な人の死が話題になる。避難時に背負っていた高齢者が津波にさらわれた経験を話した人もいた。酒を飲み、誰もがため込んだ気持ちを吐き出した。涙を流し、そして笑った。

 店は13年7月に開店50周年を迎えた。常連客が日替わりでお祝いしてくれた。記念に贈られた特製の大漁旗と思い出の写真集は、大切な宝物になった。
 仮設店舗の撤去期限まで1年半。延長を求める声も上がるが、先のことは分からない。今はただ、できる限り店を続け、横丁を守りたいと思う。「鉄のまち」に愛されてきた酒場を。
 「店は人生の一部。ここで死ねたら本望だ。頑張んねばなんね」。こよいも1人、カウンターに立つ。(東野滋)


2016年09月08日木曜日


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