山形のニュース

<山形の原発避難者>子ども守るため決断

山形の街並みを眺める渡辺さん。年末にはここで、新たな暮らしが始まる

◎そして、これから(3)踏み出す

 「福島を出るってことは、捨てるってことなのかな」
 東京電力福島第1原発事故後、福島県郡山市から山形市へ自主避難した渡辺恵さん(35)=仮名=の心は揺れた。大切な場所を離れたかったわけではない。山形で暮らしていくと決めたのは、子どもたちの存在があったからだ。

<成人するまでは>
 小学生の長男を連れて結婚式を挙げたのは、東日本大震災の6日前のことだった。夫(35)と3人で新たな生活を始めたばかり。描いていた家族の暮らしは原発事故で一変した。
 山形市へ母子避難したのは2011年8月。直後、妊娠していることが分かった。喜びは大きかったが、同じくらい不安もあった。
 妊娠からしばらくして、医師から胎児の心臓が止まっていると告げられた。「どうして…」「もっと早く避難していれば良かったのかな」。自分を責めた。それから3カ月くらいの記憶はあいまいだ。心配した夫も後追いで山形へ移った。
 「主人に実の子どもを抱かせてあげたい」。思いは強かったが、祈るような気持ちとは裏腹に、その後、2回の流産を経験した。
 「これ以上は無理。あと3カ月で子どもができなかったら諦める」。夫や周囲に告げた。言葉にすることで、自分の気持ちを固めたかったのかもしれない。
 ところが、その翌月、妊娠が分かった。「最後の最後に来てくれた」。待ち望んだ次男を見て、腹をくくった。「自分の子どもは自分で守る。成人するまでは山形で暮らす」

<罪悪感は消えず>
 「福島を捨てた」という罪悪感が消えることはない。「がんばろう福島」という標語を見て、「ここに住み続けない自分は、人として間違っているのかな」と感じたこともある。
 福島の家族や友人には、山形で暮らすと決めた本当の理由を言えなかった。「せっかく夫が仕事を見つけたから定年まで勤めたい」「長男が山形の学校になじんでるから」と説明した。
 妊娠中には東電と国に損害賠償を求めた集団訴訟の法廷にも立った。「事故さえなければ、こんな思いは抱えなかった」。流産の原因ははっきり分からない。だからこそ、心の中の不安や後悔は消えない。やりきれない思いが残る。
 山形市で中古の一軒家を購入し、11月には借り上げ住宅から引っ越す予定だ。「いつまでも避難者という立場に甘えてはいられない。ちゃんと歩いて行く姿を子どもたちに見せたい」。2人の子どもを抱えた母親の視線は前を向いている。

●受け入れる姿勢を
<「NPO法人やまがた育児サークルランド」代表の野口比呂美さん(55)の話>
 避難に限ったことではなく、子育ては選択の連続だ。例えば子どもを保育園に預けて働き始める時期や、中学受験も一つの選択。周囲はその選択を評価するのではなく、受け入れる姿勢を持つべきだ。それぞれの母親の不安や、避難の背景、避難者ならではの苦労を理解した上で、支援していく必要があるのではないか。
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 東日本大震災から11日で5年半になる。東京電力福島第1原発事故では、多数の福島県民が避難生活を余儀なくされた。隣接する山形県では、今なお2778人(1日現在)の避難者が暮らし、家族、親族らと離れ離れの生活を送っている人たちもいる。福島県は自主避難者の住宅無償提供を2017年3月で打ち切る方針を示し、多くの家族が岐路に立つ。生活の「これから」を見詰める当事者たちの思いは複雑に入り乱れている。(米沢支局・相原研也、山形総局・阿部萌、福島総局・高橋一樹)


2016年09月08日木曜日


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