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<3.11と今>一日一日 闘いだった

自宅跡に建立した観音像を見詰める笹谷さん=8月25日
小学校の運動会で並んで写真に納まる舟一さん(右)と要司さん=1998年4月

 震災で被災した蒲生地区は災害危険区域になり、新たな住宅建築はできなくなった。一部地域が産業用地として活用が期待される一方、住み慣れた古里を去る人、暮らし続ける人それぞれの思いがある。震災から5年半。人々の胸の内に耳を澄ます。

◎変わる古里―仙台市宮城野区蒲生地区(1)息子に誓う

 東日本大震災の津波が襲った仙台市宮城野区蒲生地区。七北田川の北側、河口近くに観音像が立つ。更地になった一帯と海を見守っている。
 「穏やかな顔。優しかった息子たちを思い出す」
 笹谷由夫さん(70)が手を合わせる。
 2014年12月、津波で流失した自宅跡に建立した。台座を含め高さ約3メートル。舟要(しゅうよう)観音と命名した。長男舟一(しゅういち)さん=当時(20)=、次男要司(ようじ)さん=同(19)=の名前から1字ずつ取った。
 震災時、大学生だった2人は春休みで家にいた。同居していた笹谷さんの兄と近所に住む姉が行方不明になった。2人は姉の様子を見に行って、津波にのまれたらしい。
 当時、会社員だった笹谷さんは仕事で仙台市西部にいた。妻美江子さん(57)とは翌日、妻の勤め先だった多賀城市内で再会。避難所を何カ所も、何度も捜し歩いたが息子たちの姿はなかった。
 宮城県利府町の県総合運動公園グランディ21に足を運ぶ。そこは遺体安置所。「ほかに捜す所がある」。妻に泣きつかれた。ほどなく、4人全員の物言わぬ姿を確認した。

 打ちひしがれる中、避難所で心ない言葉を耳にした。「逃げなかったのが悪い」「家族を亡くした人はほかにもいる」。胸に突き刺さった。
 避難所に居たたまれず、宮城野区内にアパートを借りた。息子のことを次第に話さなくなった。「絆」「共助」の言葉が耐えられない。「結局、自分たちで乗り切るしかない」。家族を失った人と、そうでない人との溝は深いと感じた。
 子どもを亡くした悲しみは、蒲生再建への強い思いに変わる。一帯は11年12月、災害危険区域に指定された。蒲生北部は市の土地区画整理事業が進み、自宅跡は宮城県が防潮堤を建設する区域に入った。
 「現地再建こそ本当の復興ではないか。個人の選択を無視するのは許せない。『おやじ、何とかしてくれ』と息子から言われている気がする」。祖父の代から蒲生に住む。住民有志約10人と「蒲生のまちづくりを考える会」を結成し、代表世話人に就いた。

 多賀城市に12年暮れ、住まいを移した。約200坪の蒲生の自宅敷地にトイレ、仏壇を納めた小屋、集会所、物見台を次々と建てた。土地は明け渡さないという宣言だ。集会所は15年7月、火災で全焼。4カ月後、再建した。
 今年7月下旬、覚悟していた事態になった。土地収用法に基づく県の事業説明会が開かれた。立ち入り調査などを経て裁決までは長くて1年半と説明された。資料の「土地明け渡し」の文字の隣に、「死刑執行日」と自ら書き添えた。
 蒲生に戻りたい。だが、正直なところ、どう手を打つべきか分からない。
 「5年半、一日一日が闘いだった。望んだわけでもなかったのに…」
 これからのことは観音様の導きに任せよう。そっと舟要観音を見上げた。(庄子晃市)

[蒲生地区]仙台市宮城野区東部の七北田川河口の両岸に位置する。震災前、川を挟んだ北部には約3000人が暮らし、震災による死者・行方不明者は157人。南部には約1000人が居住し、17人が犠牲になった。大半が災害危険区域に指定され、北部は産業用地として市の土地区画整理事業が進む。南部には現在、約780人が居住。17世紀半ばに開拓が始まり、近年まで半農半漁が基盤だった。野鳥の飛来地、蒲生干潟がある。


2016年09月14日水曜日


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