宮城のニュース

<3.11と今>愛着ある家 守りたい

自宅前に立つ堀江さん=8月28日
震災直後の堀江さんの自宅。がれきに囲まれ、近づくことができなかった=2011年3月

◎変わる古里−仙台市宮城野区蒲生地区(2)住み続ける

 工事車両が行き交う更地の先に、わが家がぽつりと立つ。「たとえ1軒になっても住む」。仙台市宮城野区蒲生東屋敷添の会社員堀江雄一さん(46)は、覚悟を決めている。
 地域一帯は東日本大震災で津波被害を受け、「災害危険区域」に指定された。被災家屋を補修して住むことは可能だが、新築はできない。ほとんどが内陸に移り、現在残る一戸建て住宅は8軒。学校も交番もなくなった。
 産業用地として整備が進む周辺は、工事がピークを迎えている。朝はトラックで渋滞し、初めて来る人はたどり着けないほど通行止めも多い。
 不便は数知れず。それでも「生まれ育った土地、愛着のある家を離れたくない気持ちは変わらない。不都合があれば、一つ一つ行政に訴えていくしかない」。

 震災発生時は、仕事で宮城県柴田町にいた。妻と子ども3人も職場や学校にいて助かったが、数日後、確認できた自宅は2階近くまで浸水していた。1階は窓が破れ、めちゃくちゃ。洗濯機は外に投げ出されていた。
 震災の5年前に建てたばかりのマイホーム。悔しかった。新築すれば二重ローンを抱えることになる。
 リフォームして住むしかない。震災から2カ月後、決断した。幸い2階はほとんど被災せず、地震保険も下りる。「とにかく動こう」。みなし仮設住宅のアパートに住んで準備を進め、2011年9月、工事の足場を設置した。「ここに住む」という意思表示だ。行政の対応を待っていられなかった。
 仙台市の災害危険区域指定を知ったのは、11年暮れ近く。テレビのニュースを見て驚いた。
 「危険区域? 何?」
 みなし仮設住宅は同じ地域の人が多いプレハブ仮設住宅と比べ、情報が不足しがち。「一方的に決められた」と感じた。行政への不信感が募った。
 「代々の土地や家を奪われたくない。住み続ける権利がある」。怒りも相まって、近隣住民が次々と移転する中、現地に残る思いは強まった。

 防災集団移転は今年3月で終わった。危険区域の指定がどこまで必要だったのか、今も疑問が残る。「直せば住める家」は少なくなかった。区域の範囲をもっと柔軟に決めることはできなかったのか。「住民への説明、合意形成があまりに不足していた」と思う。
 残った家はほとんどが高齢世帯。恐らく自分が一番若い。「みんな残らざるを得なかった人たち。暮らす上で問題があれば、自分が先頭に立って訴えなければ」。7月には、周辺の通行止めなどの見通しについて、工事会社を通じて市や県の説明を求めた。
 市民として暮らし、納税している。少しでも生活しやすい状況にしてほしい。祖父母の代から蒲生に住み、仙台だけど仙台ではないような穏やかな雰囲気が好きだ。手探りながら、ここでの暮らしを守りたい。
 震災後、市内に住む長男夫婦に子どもが生まれた。もう少し大きくなったら、「じいちゃんの家はここだよ」と伝えたいと思う。(菊池春子)


2016年09月15日木曜日


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