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<3.11と今>自然と共生 養魚再び

宮城県蔵王町の養魚場で、コイに餌をやる山口義雄さん(右)と弟の義信さん=10日
津波に襲われた蒲生の養魚場。トラックやコンテナが養殖池に流れ込んだ=2011年

◎変わる古里−仙台市宮城野区蒲生地区(4)干潟の恵み

 清流を引いた宮城県蔵王町遠刈田温泉七日原の養魚場。山口義雄さん(75)が弟の義信さん(69)と魚の世話に追われる。
 生き物相手の仕事は昼夜を問わない。「体はきついけど、いい魚ができたときが何よりの喜び」。義雄さんの厳しい表情が和らぐ。
 東日本大震災前、兄は蒲生干潟の西にある仙台市宮城野区中野高松、弟は蔵王町で暮らし、それぞれの養魚場を管理。海沿いと山あいの気候の違いを生かし、コイとギンザケの稚魚を行き来させて育てていた。祖父の代からの養殖業を兄弟で受け継いできた。
 上山市でコイを育てていた父親が蒲生のウナギ養魚場を買い取ったのは、終戦直前のこと。蒲生干潟には地下水脈があり、かつて七北田川の河口両岸には、ウナギを養殖する池が点々と並んでいたという。
 蒲生はコイの養殖に適した環境がそろっていた。気候が温暖で成育が早い。地下水は感染症のリスクがなく、稚魚が好むプランクトンが繁殖した。
 自然の恵みを生かし、飼育法を吟味して脂の乗った健康なコイを育てた。加工も手掛け、洗いや甘露煮は人気を呼んだ。ギンザケ養殖にも取り組み、東北、関東へと取引先を広げた。

 自然は時として牙をむく。あの日、蒲生には出荷を控えた120万匹のコイがいた。1週間前に蔵王から移したギンザケ17万匹も。一年で最も多い魚を抱えていた時期だった。
 津波はまさに「最悪のタイミング」。手塩にかけた魚、設備、自宅、全財産を一瞬で失った。どん底に突き落とされ、養殖業を畳むことしか頭になかった。
 憔悴(しょうすい)しきっていたとき、取引先に声を掛けられた。「また、いい魚を作ってよ」。蒲生で育てた稚魚が欲しいと言う。
 地道にこつこつと取り組んできた仕事が評価されたように感じた。たくさんの励ましや見舞いが届いた。力が湧いてきた。
 「養殖を続け、お客さんに恩返しをしよう」。義雄さんは蒲生での再建を決断。蔵王に住まいを移し、足場を固める。

 蒲生の養魚場周辺は今、伸びきった夏草に覆われている。市の土地区画整理事業で工場が集まる産業用地に変わる計画だ。養殖池の大半は新たに建設される防潮堤の用地になり、5万3000平方メートルあった池の面積は3分の1になる。
 工場や大型車両の振動、騒音、ほこり。魚の成育にどんな影響があるのか。不安は尽きない。
 区画整理が終わり、養殖施設ができるのは早くても4年後だ。仙台での家探しも思うように進まない。これから先、考える以上に長い時間が待っているのかもしれない。
 震災前、養殖池の排水は干潟に汽水域を生み、野鳥や魚、水生生物など多様な命を育んだ。蒲生唯一となる養魚場の再建は、地域の自然や歴史を未来につなぐ役割を担う。
 「生きているうちは力を振り絞って頑張らないと」
 水面に輪を残し、コイがはねた。(伊東由紀子)


2016年09月17日土曜日


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