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<満州の記憶>若者犠牲に 未来奪う

事変で旧満州の寛城子(現在の長春市)を占領後の歩兵第四連隊=1931年9月19日午前11時30分(仙台市歴史民俗資料館提供)
事変で戦死したおじの墓参りをする貞夫さん(左)=8月14日、丸森町耕野の共同墓地

 日本が旧満州(中国東北部)で起こした満州事変(1931年9月18日)から、あすで85年を迎える。中国本格侵攻の発端となり、第2次世界大戦へとつながる事変では、仙台に司令部を置いた旧日本軍の第二師団などが投入され、初の戦死者も宮城県関係者とされる。自衛隊の「他国での交戦」という事態が現実味を増す今、過去の歴史にどう向き合えばいいのか。満州の記憶を持つ人々を訪ねた。(角田支局・会田正宣)

◎満州事変85年(上)一兵卒

<海外行かないで>
 「天皇陛下萬歳皆サン左様ナラノ一言ヲ遺シ従容トシテ遂二逝ク」。宮城県丸森町耕野の共同墓地に、満州事変で戦死した陸軍兵士、佐藤泉さんの墓がある。
 佐藤さんは第二師団歩兵第四連隊に所属した。事変に伴い31年11月、満州北部のチチハル近くで行われた戦闘で弾が腰を貫通。日本に送還され東京の病院で療養したが、32年10月に亡くなった。23歳だった。耕野村(当時)の村葬が営まれ、桃泉寺まで約500メートルの葬列ができたという。
 佐藤さんのおい、貞夫さん(72)は盆に墓参した。「『ご先祖様、ご苦労さまでした』との思い。戦死者は若者が多く、気の毒だ」と話した。
 貞夫さんの長男(48)は陸上自衛隊員。東日本大震災で災害救助に携わった。
 憲法解釈の変更により集団的自衛権行使を容認した安保関連法が3月、施行された。国連平和維持活動(PKO)に派遣される自衛隊には、武装集団に襲われた国連職員らを武器を持って助けに行く「駆け付け警護」が新任務として付与される可能性がある。
 「自衛隊は国内を守り、海外に行かないでほしい」と貞夫さん。「海外に行けば、だれかが犠牲になる。それは末端の人。戦前は口に出せなかっただけで肉親は行ってほしくないと思っただろう」と想像する。

<命令逆らえない>
 事変7年後に第四連隊に入隊した小野房次郎さん(99)=丸森町舘矢間=も、満州で従軍した。
 連隊が遭遇したのが、39年のノモンハン事件。旧ソ連軍の戦車に日本軍が小銃や機関銃などで立ち向かった戦闘で、完敗した。被服業務担当の小野さんは後方だったが、「旧ソ連軍に蹂躙(じゅうりん)され、戦いにならなかった」と思い返す。
 40年に満期除隊した後、戦況が悪化した44年に再び召集され、中国湖南省などに赴いた。
 部隊は中国人集落から食糧を調達し、火を付けた。逃げ惑う民間の中国人に銃を撃たなければならないこともあった。逆に反撃に遭い、銃弾の中を逃れたこともあった。
 「軍隊では嫌でも上官の命令には逆らえない」と小野さん。「戦争は残酷なもので二度としてはならない」。その表情は硬く、厳しいままだった。

[満州事変]1931年9月18日、中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。これを機に軍事行動を開始し、中国東北地方を占領。事変の最初の戦死者は、仙台で編成された関東軍独立守備隊第二大隊の兵士とされる。日本は32年3月、清の最後の皇帝溥儀を据え、満州国を建国。事変を調査したリットン報告書を受け、32年10月に国際連盟を脱退した。


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2016年09月17日土曜日


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