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<満州の記憶>関東軍撤退 置き去り

春の種まき作業の頃。写真に収まる鹿島台分村の開拓民(鹿島台歴史研究会提供
拓魂碑に花を手向ける遠藤みさ子さん(前列右)、小畑よし子さん姉妹=8月20日、大崎市鹿島台

◎満州事変85年(中)開拓民

 大崎市鹿島台小近くにある上戸公園。旧鹿島台村(現大崎市)から旧満州(中国東北部)に渡った開拓移民の犠牲者を慰霊する「拓魂碑」がある。

<ソ連侵攻で一変>
 8月20日に関係者が墓参した。引き揚げ者で参列したのは、遠藤みさ子さん(88)=大崎市鹿島台=と妹の小畑よし子さん(81)=松島町竹谷=の2人。慰霊碑に花を手向けた。
 旧鹿島台村は旧ソ連国境に近い満州北部の勃利県に開拓団を送り、分村をつくった。2人の父が1940年の先遣隊に参加し、3年後に妻子を呼び寄せた。食糧の配給は恵まれ、砂糖もあったという。
 終戦直前の45年8月9日、旧ソ連軍の侵攻で状況は一変した。逃避行中に爆撃に遭い、貨車の下に避難したが、2両隣の車両が爆撃された。死んだ人の下に隠れ、命拾いした。
 父は抑留され、行方不明。母は収容所で亡くなった。チフスにかかった次女よし子さんを長女みさ子さんが背負って逃げた。姉妹4人だったが、生きて戻ったのは2人だけだった。
 収容所で生き延びるため、死者の衣服をはぎ取り、しらみをはらって食べ物と交換した。周囲が寝静まった夜、死者の肉を食べた人もいたと聞く。みさ子さんは「避難民の哀れさは言い表せない。生きて帰れたのが不思議だ」と振り返る。
 旧日本軍の関東軍は撤退する際、旧ソ連軍の進軍を妨害するため橋や線路を爆破した。置き去りにされた開拓民の逃避行は悲惨を極めた。鹿島台分村では、271人のうち184人が故国の土を踏めなかった。
 軍の「棄民」ともいえる行動を当時、知らなかったみさ子さん。「同じ人間として、よく行えたものだ」と唇をかみしめる。

<シベリアに抑留>
 旧耕野村(現丸森町)は鹿島台の隣に分村をつくった。白石市出身で耕野開拓団に参加した八島武雄さん(93)=丸森町耕野在住=は43年に旧満州に渡った。終戦前に兵隊に取られ、終戦後は旧ソ連のシベリアに2年抑留された。
 アムール川沿いのコムソモリスク近郊の収容所に入れられた。材木の切り出しや、石炭掘りの強制労働に従事。多くの仲間が命を落とし、「皆殺しにされると思った」。
 開拓団の旗振り役だった八島考二村長(故人)は戦後、引き揚げ者支援に奔走した。私有地の山林を提供し、栗原市栗駒耕英の開拓に道筋を付けた。入植者の1人が武雄さんで、子どもがいなかった考二さんの養子となった。
 「『みんなに苦労をかけて申し訳ない』と口にしていた」と考二さんをしのぶ武雄さん。「お国のためと教えられ、国に尽くそうと赴いたが、大変な目に遭った。ひどい時代だった」

[満州開拓] 満州事変で日本は旧満州の支配を確立後、開拓移民を国策として奨励した。移民数は全国約27万人。宮城県からは当時の鹿島台村、耕野村、南郷村(現美里町)などから約1万人が渡った。食糧難で疲弊する農村の救済と、旧ソ連への軍事的備えの狙いがあった。中国人の耕地を安価で買い上げ、摩擦を招くこともあった。


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2016年09月18日日曜日


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