宮城のニュース

<あなたに伝えたい>日常の大切さ教えてくれた

「災害公営住宅の暮らしにも慣れ、心穏やかに暮らしている」と話す岩渕さん=多賀城市桜木3丁目
原田キミ子さん

◎岩渕さと子さん(宮城県多賀城市)原田キミ子さんへ

 さと子さん 父が亡くなり、1人暮らしになった母を北海道旭川市から多賀城市の私たち夫婦の元に呼び寄せました。
 多賀城に来てからの母は、草取り、ごみ出し、日向子の子守など、縁の下の力持ちとして家族を支えてくれました。日向子が震災の2年前に生まれてからは、「ひ孫第一」で、成長を楽しみにしていました。
 食堂経営の経験がある母は料理上手で、「おふくろの味」そのものでした。震災の4、5日前に当時仕事で青森県にいた私たち夫婦が一時帰宅した際、普段は娘に任せていた台所に母が珍しく立ち、豚肉のしょうが焼きなどごちそうをたくさん作ってくれました。今思うと、自分の死期を知って手料理を振る舞いたかったのだと思えてなりません。それが母との最後の交流でした。
 震災時、萌と日向子は無事でしたが、母とは連絡がつきませんでした。私の誕生日は3月11日。図らずも母の命日になってしまい、何か運命のようなものを感じました。
 仕事で家を空けることが多かった私と夫は多賀城をついのすみかと決め、市内の災害公営住宅に落ち着きました。母が愛した日向子も小学2年生になり、別の災害公営住宅から元気に学校に通っています。
 震災で何もかも失いましたが、たくさんのことを教わりました。当たり前だと思っていたありふれた日常こそが、本当は一番幸せでありがたい。身をもって気付かせてくれたのは、母でした。感謝の気持ちでいっぱいです。(日曜日掲載)

◎旭川から移住、家族の生活支えた

 原田キミ子さん=当時(78)= 多賀城市宮内の自宅で長女の岩渕さと子さん(61)夫婦と孫の萌さん(27)、ひ孫の日向子さん(7)の5人暮らしだった。人工透析を受けていた市内の病院から帰る途中、東日本大震災の津波に襲われたとみられる。5日後に遺体で発見され、家族が対面できたのは2週間後だった。


2016年09月25日日曜日


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