福島のニュース

<以和貴の心>政財界と住民 意識に差

いわき市で最後まで残っていた炭鉱での最後の採炭。120年に及んだ歴史の幕を閉じ、市内から炭鉱が消えた=1976年8月28日(市提供)
小宅幸一(おやけ・こういち)1951年、いわき市(勿来地区)生まれ。立教大卒。74年いわき市役所入り。広報広聴課長、いわき未来づくりセンター所長、総合図書館長などを務める。公務の傍ら、地域史を研究し、著書も多い。常磐炭田史研究会副会長、いわき地域学會幹事。市職員時代に市制施行20周年、30周年、40周年の各記念誌を編集。今回も嘱託職員として50周年記念誌を完成させた。64歳。

 福島県いわき市が14市町村の大同合併で誕生し、1日で50年となった。石炭産業が斜陽化する中、新産業都市の指定を受けるために生まれ、広大な市域と旧市町村をどうまとめるかに腐心し続けた。東日本大震災後は、東京電力福島第1原発事故の避難者2万4000人が居住するなど新たな局面を迎えている。その名に「以和貴」(和を以(もっ)て貴しとなす)の願いを込めた市の「現在」「過去」「未来」を聞いた。(いわき支局・古田耕一)

◎いわき市大合併50年(中)過去/地域史研究家 小宅幸一さん

<人口増に転じる>
 −旧14市町村による大合併は、新産業都市の指定を受けるためだった。
 「いわき地方は石炭と豊富な水に恵まれ、昭和初期から工業が発達した。昭和30年代に入ると、炭鉱が中小から次々と閉山し、産炭地区は疲弊した」
 「国の施策を受け、政財界は広域開発を目指すようになった。地域経済の立て直し、開発実現のため新産業都市に名乗りを上げた」

 −指定と合併の効果は。
 「臨海部を中心に工業化は急速に進んだ。さらに産炭地域振興臨時措置法でも、炭鉱跡などに工業団地が造成された。人口は増加に転じ、製造品出荷額も東北一を争うようになる。大きな受け皿ができたことで、最大の炭鉱の閉山(1971年)や北洋サケ・マス漁の衰退を乗り切れたのも確かだ」

 −住民は大合併をどう受け止めていたのか。
 「いわき地方は『昭和の大合併』で1955年までに、1市11町23村が5市4町5村に再編された。わずか数年でまた合併話。『ついていけない』と抵抗感は強かった。政財界と住民の意識、感覚はずれていた」
 「5市に力の差がなく、工業が発展する地区と閉山で疲弊する地区が同居する難しさもあった。新市名をひらがなに決め、『以和貴(いわき)』(和を以(もっ)て貴しとなす)の意味を込めたのも、旧市町村の垣根の裏返しだ」

<新拠点造り挫折>
 −日本一広い市の誕生は壮大な実験とも言われた。
 「各地の踊りを統一し『いわきおどり』を創作するなど一体化を掲げながら、地域バランスを取って箱物を建設した。市中央部を大規模開発し、新たな拠点を造る構想もバブル崩壊などで途中で挫折した」
 「転機は99年策定の都市計画マスタープランだ。プランに基づき、各地区に住民組織をつくってもらい、市とパートナーシップ協定を結んだ。各地区の個性を生かす方向につながった」

 −意識は変化したのか。
 「交通網の発達で時間距離も縮まり、市として成熟してきた。映画『フラガール』(2006年公開)も市の知名度とイメージを上げた。だが、地域には先人からの長い歴史がある。愛着はたかだか50年では消えない。市民はいわき市と旧市町村を使い分けている」

 −東日本大震災での対応は。
 「広域都市のメリット、デメリットが出た。沿岸の津波、山間の土砂崩れなど被害も課題も多様で、細やかな支援が難しかった。一方で広域多核都市だからこそ、1人の首長の判断で、2万4000人の避難者を一括して受け入れられた」
 「震災は炭鉱閉山、北洋漁業衰退に続く試練。困難を乗り越え、いわきの歴史を積み重ねていきたい」

[新産業都市]1962年の新産業都市建設促進法に基づく工業開発の拠点都市。全国総合開発計画(全総)の「拠点開発構想」を具現化し、国土の均衡ある発展や地域格差の是正などを目的とした。国庫補助率かさ上げなど財政優遇措置があり、誘致合戦が展開された。いわき市は合併前の64年に「常磐・郡山地区」として指定された。全国に15カ所あり、東北は他に「仙台湾」「八戸」「秋田湾」の3地区。2000年度末に廃止。


2016年10月05日水曜日


先頭に戻る