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<大川小保存>設計時「津波」思い至らず

津波で被災した大川小を訪れ、被害状況を確かめる北沢さん=9月25日、石巻市釜谷山根
完成直後の大川小=1985年3月、石巻市釜谷山根(北沢建築設計事務所提供)

 東日本大震災後、石巻市大川小を設計した建築家の北沢興一さん(79)=東京都渋谷区=は「大川小設計者」であることを名乗れずにいた。今年3月、震災遺構として被災した校舎の保存が決まり、心境に変化が生まれたという。5年に及ぶ沈黙を破った北沢さんと9月下旬、同校を訪ねた。(報道部・畠山嵩)

 <児童74人と教職員10人が津波の犠牲となった大川小を震災直後に訪ねたが、「大川小設計者」だと名乗れなかった>

 目立たぬように校舎の被災状況を見て回りました。焼香を終えると、外国人の記者から「学校とはどういう関係か」と聞かれました。遺族の心情を考えると、とても「大川小設計者」とは名乗れず、足早に学校を後にしました。
 今年3月に震災遺構として校舎の保存が決まり、取材に応じてもいいと思うようになりました。昇降口や児童が集うアセンブリーホール、低学年の教室はあまり傷んでおらず、修復は可能です。例えばホールを修繕し、哀悼の意を示す場にできないでしょうか。

 <大川小は1985年3月の完成時、屋上がないモダンなデザインが評判を呼んだ>

 私の建築哲学は「児童が喜ぶ施設を造る」。厳しい面積基準がある中、廊下の面積を節約して大きな空間を確保しました。校舎を包む柔らかな曲線、アセンブリーホールなど斬新なデザインが生まれました。
 学校は普段、鍵を掛けて屋上を使いません。限られた空間を最大限生かそうと、屋上がない2階建てを採用しました。その分、2階教室の天井の高さを最大約4メートルにでき、降り注ぐ太陽光を取り入れることができました。
 子どもたちが校内を駆け回り、喜ぶ姿を姿に目にし、「建築家冥利(みょうり)に尽きる」と充実感に包まれました。

 <地震対策に万全を期す一方、津波対策は念頭になかった。今も「裏山に逃げれば助かった」という声は根強い>

 78年の宮城県沖地震や地盤の弱さを踏まえ、地震対策は特に気を使いました。コンクリート製のくいを200本以上打ち込みました。学校施設としては異例の多さです。
 大川小は海から約4キロ離れており、残念ながら津波の「つ」の字も思いが至りませんでした。設計時、津波対策は求められませんでした。
 最大の後悔は、裏山に散歩コースを造れなかったことです。裏山にあずまやを建て遊歩道でつなごうと提案しましたが、予算面などから断念しました。「無理をしてでも造るべきだった」と今でも繰り返し悔いています。
 二度と悲劇を繰り返さないため、校舎をどう残すべきか。「大川小設計者」だからこそ、貢献できるはずだと思っています。

●北沢興一(きたざわ・こういち)1937年、長野県生まれ。工学院大建築学科卒。米国人建築家アントニン・レーモンド氏に師事。立教高や立教大、上智大、ハワイ国際会議場などを手掛ける。妻が石巻市と合併した旧河北町出身という縁で、旧河北町庁舎や河北中校舎など同町内で計16の建築・改修工事に携わった。


2016年10月12日水曜日


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