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<大川小 還らぬ人へ>空白の51分埋めたい

墓前で冥福を祈る只野さん。未捺さんが好きだったピアノの形をした物入れも備えた=9月20日

◎津波訴訟10月26日判決(2)只野英昭さん

 彼岸に入った9月20日、宮城県石巻市釜谷地区を訪れた只野英昭さん(45)=石巻市=が墓前に手を合わせた。
 「内気でかわいい娘でした。いつか帰れるなら、この釜谷に帰りたい」

<元気な声を残し>
 大川小3年だった長女未捺(みな)さん=当時(9)=、妻しろえさん=同(41)=、漁師だった父の弘さん=同(67)=の3人を津波で失った。
 墓の脇にピアノの形をした小さな物入れがある。東日本震災後に墓を建て直した際、ピアノが得意だった未捺さんのために備えた。
 目を閉じると、ピアノの音色がよみがえる。リクエストに応じ、人気バンド「いきものがかり」の曲「ありがとう」をうれしそうに演奏してくれた。
 2011年3月11日の朝、未捺さんを大川小の近くまで車で送った。5年生だった長男哲也さん(17)も一緒だ。
 夜は、しろえさんの誕生パーティーを開くはずだった。車中はその話題で持ち切り。「行ってきます!」。元気な声を残し、きょうだいは2人の命運を分ける学校へと向かった。
 海岸から約4キロ離れた大川小が高さ約8.6メートルの津波に襲われたのは午後3時37分ごろ。校庭から移動を始めたのは直前だったとみられる。巨大な揺れから50分近く、校庭に留め置かれた計算になる。
 哲也さんは津波にのまれながら一命を取り留めた。未捺さんは震災から9日後、遺体で見つかった。眠っているような表情だった。
 ホワイトデーの14日、未捺さんが欲しがっていた電子ピアノが届く予定だった。泣きながら電話で注文を取り消した。
 「死にたい」
 枯れない涙が頬を伝う。

<消えない違和感>
 娘たち児童74人は、なぜ、安全なはずの学校で最期を迎えることになったのか。地震発生から約50分間、なぜ、近くの裏山に避難できなかったのか。
 真実が知りたい−。市と宮城県を相手に14年3月、原告の一人として仙台地裁に訴えを起こした。
 釜谷地区には過去に津波が到達した記録がない。山あいにある入釜谷を除くと、釜谷地区の住民209人のうち約8割が死亡した。市側はその数字を基に「原告の主張は教職員やその遺族にとって酷」と訴えた。
 市側の主張に耳を疑った。
 「子どもは最期の瞬間まで学校の管理下にあった。自分の意思で避難できるはずがない。地域住民と同列に扱うのはおかしい」
 釜谷の犠牲者に責任をなすり付けるかのような主張に、違和感が消えない。
 休みの日はできるだけ、被災した校舎へ足を運び、教室を掃除する。娘に会える気がして心が落ち着く。
 「ただいま!」。笑顔で帰宅する娘の姿が脳裏に浮かぶたび、「空白の51分」を埋めたい、と願う。
 11年6月12日、3人の葬式を出した。あえて結婚記念日を選んだ。何年、何十年たっても別れの日を忘れないために…。
          ◇         ◇         ◇
 児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市大川小の津波被害を巡る訴訟の判決が26日、仙台地裁で言い渡される。東日本大震災から5年7カ月、片時も忘れ得ぬ「還(かえ)らぬ人」へ−。原告や遺族関係者の思いを伝える。(石巻総局・水野良将、報道部・斉藤隼人、畠山嵩)


2016年10月16日日曜日


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