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三笠宮さまが逝去 皇族最長寿の100歳

新年一般参賀で、宮殿・長和殿のベランダから手を振られる三笠宮さま=2015年1月2日

 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日午前8時34分、心不全のため、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で亡くなられた。100歳だった。皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は日取りなどの検討を始めた。

 三笠宮さまは急性肺炎と診断され、5月16日から聖路加国際病院に入院していた。逝去を受けて、宮内庁では名川弘一皇室医務主管、加地隆治宮務主管が記者会見した。
 名川氏らによると、8月に一時容体が悪化したが、その後回復。今月27日午前7時40分ごろまで体調は安定していたが、徐々に心臓の拍動が遅くなり、同8時ごろ心停止に陥った。同病院に検査入院中だった同妃百合子さまが最期をみとったという。
 1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、同中等科を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。成年を迎えた35年に三笠宮家を創立し、41年10月に子爵・故高木正得氏の次女百合子さまと結婚。太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任し、終戦時は陸軍少佐だった。
 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩んだ。日本オリエント学会の初代会長を務め、東京女子大や青山学院大の講師、東京芸術大の客員教授などとして教壇に立ち、テレビやラジオなどにも出演。歴史学者の立場から、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で廃止された紀元節復活の動きに反対したほか、戦争末期の44年に陸軍を批判した文書が後に見つかり、反響を呼んだ。
 中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁などを務め、国際親善をはじめ、さまざまな分野に貢献。ダンスにも親しみ、普及に尽力した。著書は「古代オリエント史と私」「わが歴史研究の七十年」など多数。
 百合子さまとの間に長男の故寛仁(ともひと)さま、次男の故桂宮さま、三男の故高円宮さま、長女の近衛ィ子(やすこ)さん、次女の千容子(まさこ)さんの5人のお子さまをもうけ、2002年11月に高円宮さま、12年6月に寛仁さま、14年6月に桂宮さまを亡くした。
 11年に結婚70年を迎え、96歳だった12年7月に心臓の僧帽弁の機能回復手術を受けた。15年に100歳を迎えていた。今年1月2日には、皇居で行われた新年の一般参賀に出席。トルコへ赴任する大使と4月8日に宮邸で接見したのが最後の公務となった。
 東北との縁は深い。1952年から「三笠宮杯東北一周自転車競走大会」を開始。後継の「三笠宮杯ツール・ド・とうほく」は2007年まで続いた。
 69年から94年まで仙台市で行われていた「大相撲仙台準場所」では、優勝力士に三笠宮旗が贈られた。
 古代オリエント学者として、02年に仙台白百合女子大(仙台市泉区)に招かれ「古代アナトリア文明について」と題して講演した。


<三笠宮>名前は崇仁。1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生した。兄は昭和天皇、秩父宮、高松宮。幼少時の称号は澄宮。学習院初、中等科を経て32年4月、陸軍士官学校予科に入学。35年12月、成年皇族となり三笠宮家を創設した。
 陸軍大学校を卒業し、43年に南京の支那派遣軍総司令部に赴任、陸軍少佐に任じられた。帰国後は大本営陸軍参謀などを務め、終戦を迎えた。戦後はオリエント史の研究者としても活動し、54年6月に日本オリエント学会を設立し、初代会長に就任。最後まで中近東文化センターや日本・トルコ協会の名誉総裁を務めた。身近な品に付けるお印は若杉。
 41年10月、百合子さまと結婚。3男2女をもうけたが、長男寛仁親王、次男桂宮、三男高円宮は2002〜14年に死去した。長女ィ子さんは近衞忠W日本赤十字社社長の夫人、次女容子さんは茶道裏千家家元の千宗室氏の夫人。

<皇室の範囲>天皇とそれ以外の皇族で構成する皇室は、三笠宮さまが亡くなったことで19人に減った。皇室典範1条は、天皇の地位を男性皇族が継承すると規定している。皇位継承順位5位だった三笠宮さまの死去で、継承資格者も4人に減少した。順位は(1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)秋篠宮家の長男悠仁(ひさひと)さま(4)常陸宮さまとなっている。


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2016年10月27日木曜日


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