山形のニュース

<酒田大火40年>犠牲消防長の長男語る

大火から一夜明け、焼け野原となった酒田市中心市街地。手前が延焼したデパート(酒田市資料館提供)
上林銀一郎さん

 戦後4番目の大火と呼ばれ、酒田市の中心市街地を焼け野原にした「酒田大火」は、29日で発生から40年を迎える。火災の犠牲者は1人。北庄内の旧1市6町を管轄した酒田地区消防組合の上林銀一郎消防長=当時(57)=だった。大火を知らない世代が増える中、上林消防長の長男、儀徳さん(72)=酒田市=が河北新報社の取材に応じ、火災の様子と亡き父への思いを語った。
 火災は1976年10月29日夕、木造の建物を改造した映画館「グリーンハウス」で発生した。風速10メートルを超える強風にあおられた炎は隣接する6階建てのデパートに延焼し、急激に火勢を増した。
 儀徳さんは出火から間もなく勤務先から市内の自宅に帰ったが、父の姿はなかった。上林消防長は自宅で一報を受け、すぐさま消防服をまとって現場に向かい、そのまま帰らなかった。
 火災は市街地22.5ヘクタールが焼け、30日未明に鎮火した。2日後、焼け崩れた火元の映画館で上林消防長の頭蓋骨と腕時計が見つかった。腕時計は儀徳さんが学生時代に着けていた物。「ベルトの鎖でおやじに譲った物だとすぐに分かった」
 遺骨をかき集めて立ち去ろうとすると、通り沿いに100人近い消防や警察職員が整然と並んでいた。行政職出身ながら消防を愛したトップの死を悼み、敬礼するためだった。涙が止まらなかった。
 なぜ、上林消防長が映画館内にいたのか、知る人はいない。目撃者はいなかった。
 日本海から吹き付ける強い風に、密集する古い木造住宅。生前、上林消防長は周囲に「酒田の真ん中で火事が起きたら大変なことになる」と警鐘を鳴らしていたという。
 「あの日は猛烈な風が吹き、消防署長は県外に出張中だった。軍隊上がりのおやじはじっとしていられず、先着隊のホースをたどって自ら現場を確かめようとしたのだろう。そういう人だった」。儀徳さんは振り返る。
 酒田大火は火元から約800メートル離れた上林さん方を含む住宅や商店計1774棟を灰にし、約1000世帯が焼け出された。
 悪夢のような日から40年。儀徳さんは自宅跡地の近くに家を再建し、当時まだ幼かった子供たちは独立。2人の孫にも恵まれた。
 年末年始には関西で暮らす長男(40)が孫を連れて帰省する。「大勢の人が大火で大切なものを失った。生きているうちに伝えておきたい。殉職したおやじの生きざまとともに」
 あの日のことを初めて孫に話そうと思っている。

◎発生後、職員を42人増員

 酒田大火を教訓にして酒田地区消防組合は、大火後4年間で職員を42人増やし、消防機材を充実させるなど消防体制を全面的に見直した。曖昧だった指揮隊の役割も明確化し、各隊の連携が図れるよう強化した。
 同時に風速レベルや気象条件に応じて警戒態勢を4段階に分類。平均風速12メートル以上の風が30分以上続いた場合、非番の職員を招集して警戒に当たる。
 酒田市と山形県遊佐、庄内両町にまたがる管内で起きた火災は1976年の118件に対し、2015年は38件と減少傾向が続く。


関連ページ: 山形 社会

2016年10月29日土曜日


先頭に戻る