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<学校と命>津波の川遡上再び警鐘

北上川を遡上した津波で破壊された新北上大橋。津波は河口から49キロ先の登米市にまで到達した=2011年4月15日、石巻市

◎大川小津波訴訟の教訓(4)災害史

<郷土史にも記載>
 「津波が松原を越えてきました。高台へ避難してください」
 宮城県石巻市の広報車が避難を呼び掛けながら大川小前の県道を通り過ぎたのは、遅くとも2011年3月11日午後3時30分ごろだった。児童・教職員計84人が津波に襲われる約7分前だ。
 松原は、大川小から約4キロ離れた長面地区沿岸に広がる松林を指す。
 「『松林を越えた』との情報から、教員は大津波の襲来を予見できた。津波が北上川を遡上(そじょう)したり、陸地を進んだりすることは大川小の教員なら容易に想定できたはずだ」
 大川小津波訴訟の判決で、仙台地裁はこう認定した。教員は勤務先周辺に土地勘があり、津波が川を遡上するという知識を持っていることを前提にしている。
 市が09年に作製・配布した津波ハザードマップは、宮城県沖地震(連動型、マグニチュード8.0)発生時、大川小近くの堤防(標高5〜6メートル)を1〜2メートル上回る津波が押し寄せると明記。津波が川を遡上することは郷土史「石巻の歴史」にも記載されていた。
 原告遺族はこうした情報を基に、訴訟で「津波が北上川を遡上して被害を拡大させることは、石巻市で働く人の間では一般的に知られていた」と訴えた。地裁判決は、遺族の主張を追認した格好だ。
 「津波が川を遡上すること自体、全く想定していなかった。たまたま橋浦小には津波が来なかったが、危機感は本当になかった」
 北上川を挟み、大川小の対岸にある旧橋浦小(現北上小)に勤務していた男性教諭はこう振り返る。
 旧橋浦小では、教員が押し寄せる津波を確認し、児童を校舎2階に避難させた。海岸や北上川の下流方向を見ていたかどうか。この差が明暗を分けた。

<様子を確認せず>
 実は震災2日前の3月9日の津波注意報発令時、大川小の教員は北上川の状況を確認していた。当時、校長や教頭、男性教務主任の3人で「津波が来たら、山に登るしかないかな」と話し合っていた。
 津波に関する知識を持っていたことをうかがわせるやりとりだが、震災当日は、誰も北上川の様子を確認していなかった。
 地震発生から約45分間、教員は児童を校庭に待機させ、津波襲来直前、向かった先は津波が押し寄せてきた北上川方向だった。
 地裁が唯一、生き残った男性教務主任への尋問を見送ったため、遺族が知りたい「なぜ裏山に逃げなかったのか」という核心部分は謎のままだ。
 津波は内陸部の米どころ、登米市にまで達した。河口から49キロも遡上した計算になる。宝永地震(1707年)や安政東海地震(1854年)でも、川をさかのぼった津波によって多くの犠牲者が出ている。
 滋賀大の藤岡達也教授(防災教育)は「川を遡上した津波は度々、大きな被害をもたらしてきた。今度こそ大川小の教訓に学ばなければ、南海トラフでも悲劇を繰り返す」と警鐘を鳴らす。
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 東日本大震災の津波で児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市大川小を巡る訴訟で、仙台地裁は26日、子どもの命を預かり、守る覚悟を学校に求める判決を言い渡した。2年7カ月に及ぶ訴訟や関係者の証言から教訓を探る。(報道部・斉藤隼人、畠山嵩)


2016年10月31日月曜日


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