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<復興を生きる>「海の男」意地を貫く

5キロを超えるヒラメを持ち上げる鈴木さん。「震災前はこんな大きなヒラメは捕れなかった」と漁場の回復を実感する=10月14日、塩釜港

 東日本大震災、東京電力福島第1原発事故は多くの人の人生を一変させた。それに負けじと、どん底からはい上がり一歩踏み出した人がいる。今も悲しみに包まれたまま、立ち直れない人もいる。被災者が今、どう生きているかを伝える。

◎3・11大震災/底引き網漁船の船主兼船頭 鈴木信男さん=塩釜市

 第8豊永丸は、宮城県塩釜市の塩釜港に水揚げするただ一隻の近海小型底引き網漁船だ。ヒラメ、カレイ、スズキ、コチ、フグ、ワタリガニ。10月14日夕、港に戻った豊永丸は、仙台湾の豊かな恵みを載せていた。
 この日の水揚げ量は460キロ。5キロを超える大物ヒラメも交じる。「大したことないな」と、船主兼船頭の鈴木信男さん(83)は淡々としていた。「(水揚げが)1トンを超える日もあるからね」
 東日本大震災の津波で、所有する漁船が塩釜港の岸壁に打ち上げられ、廃船。中古船を買い、震災の年の10月に漁を再開した。「負けてたまるか」。15歳から船に乗ってきた「海の男」の意地があった。

 塩釜の漁業の盛衰とともに生きてきた。
 底引き、はえ縄、刺し網、イカ釣りなどの経験を積み、腕を買われて1958年、北洋のサケ・マス流し網漁の漁船船長として塩釜港を出港した。
 1隻の母船に30隻以上の漁船が従う大船団を組む。「北洋の花形」と呼ばれたが、70年代の200カイリ規制で豊かな北の漁場から締め出された。
 他の多くの漁船と同様に活路を見いだしたのが、公海でのイカ流し網漁だった。日付変更線、赤道を越え、南洋に向かう。しかし、イルカや海鳥の混獲が問題視され、90年代初めに国連総会で禁漁が決まった。
 当時60歳。船頭としては働き盛りだった。「体は動くのに…」。国際情勢に翻弄(ほんろう)され、漁師たちは、なすすべがなかった。
 土木工事の警戒船や遊漁船で働き、2003年に知人に誘われて再び漁業に戻る。ようやく訪れた安定した生活を11年3月、今度は大災害がひっくり返した。

 中古船を買って漁を再開したが、東京電力福島第1原発事故による出荷制限や魚価低迷に直面。仕方なく海底のがれき撤去事業に加わった。「魚でいっぱいになるはずの甲板が、流木で埋まった」
 間もなく震災から5年8カ月。仙台湾の近海底引き網漁に携わる漁船は後継者不足などで数を減らしている。80歳を過ぎた鈴木さんの脳裏にも、午前1時に起きて船に乗り夕方帰港する生活を「何年続けられるだろうか」との思いがよぎる。
 東北の漁業史を体現する老船頭はきょうも魚の群れを追う。「漁に出れば立ちっぱなし。血圧の薬を飲んでるけどね、体は大丈夫」。第一線を退くのは、まだ先だ。(塩釜支局・山野公寛)


2016年11月01日火曜日


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