青森のニュース

<斎藤春香>栄光封印 裏方に徹す

小学校の授業でソフトボールを教える斎藤。一緒になってソフトの楽しさを伝える=9月27日、弘前市堀越小

 日本ソフトボール界を引っ張った斎藤春香。今も多くの人に慕われ、東京五輪に向け表舞台での活躍を期待する声も少なくない。栄光の軌跡を封印し、古里に根を張って競技普及に身をささげる。その闘いをつづる。(敬称略)

◎敗れざる人(1)五輪復帰/ソフトの魅力 多くの人に広めたい

 そのニュースは五輪開幕直前のリオデジャネイロから伝わった。2020年東京大会にソフトボールを含む5競技18種目の追加が決定−。8月4日早朝、3大会12年ぶりのソフト復帰に都内の記者会見場は競技団体関係者の喜びで沸いた。

<日本躍進の起爆剤>
 吉報を午前3時から起きて待っていたオリンピアンが青森県弘前市にいた。元日本代表監督の斎藤春香(46)。市役所に集まった報道陣に「五輪は最高峰の舞台で、選手の一番の目標。うれしい気持ちでいっぱい」とホッとした表情を見せた。
 ソフトが12年ロンドン五輪から除外されることが決まったのは、08年北京大会を控えた05年。世界的に競技の普及が進まず、米国1強の図式が国際オリンピック委員会(IOC)で問題視された。日本代表は北京での優勝をてこに五輪復帰を目指し、その通り頂点に立った。だが、IOCは09年、除外方針を変えなかった。
 日本ソフト界が世界の波に翻弄(ほんろう)される過程で、斎藤は夜空の星のごとく輝いた。1996年アトランタ五輪(4位)で3打席連続本塁打を放ち、「世界の大砲」として鮮烈デビュー。2000年シドニー五輪(銀メダル)は初戦の先頭打者本塁打で日本躍進の起爆剤に。04年アテネ五輪(銅メダル)は打撃不振でチームに十分に貢献できなかったが、正念場の北京五輪は日本代表を率いて頂点に導いた。
 その斎藤が今、弘前市職員の身でソフトボール教室の指導など、普及活動と青少年育成に取り組む。日本ソフトボール協会で理事、アスリート委員長、女子強化委員長の肩書を持つとはいえ、あくまでも後方支援だ。46歳の若さと実績を考えれば物足りない。
 なぜ、中央の舞台から降りたのか。11年に代表監督を退任した時、所属する日立ソフトウェア(現日立)は現場を離れた管理職のポストを用意した。しかし、斎藤は自分の使命を「ソフトの魅力をより多くの人々に広める」と考え、退社を決意。全盲の母のそばにいたかったこともあり、故郷の誘いを受け帰郷した。

<未来の大砲育てる>
 こうした状況の中、ソフトが五輪に戻ってくる。関係者からは斎藤の新たな貢献を望む声が根強い。
 スパルタ指導で名をはせた元代表監督宇津木妙子(63)は「斎藤は全ての五輪で結果を出した。強運を持っている」。並み外れた胆力に一目も二目も置く。北京五輪で総監督を務めた井川英福(72)は「彼女を生かせなければ(五輪の)連覇はない」と歯がゆさを感じている。
 しかし、斎藤は「じょっぱり」の生き方を変えるつもりはない。
 帰郷以来、U−16(16歳以下)日本代表にも選ばれた弘前学院聖愛高3年の須藤志歩(17)を熱心に指導する。かつての斎藤と同じ右投げ左打ちの内野手。「運命的な出会いを感じる」と語り、未来の大砲に夢を託す。
 須藤は「東京五輪に出て恩返ししたい」。津軽の地で、今なお斎藤は「輝き」を失っていない。(宮田建)

●斎藤春香(さいとう・はるか)青森・弘前一中でソフトボールを始めた。弘前中央高を経て1988年に日本リーグ3部の日立ソフトウェア(当時)入り。右投げ左打ちの内野手、DH(指名打者)として活躍し、96年アトランタ五輪で4位、2000年シドニー五輪で銀メダル、04アテネ五輪で銅メダルを獲得。日立監督、日本代表コーチを経て06年に代表監督に就任し、08年北京五輪金メダル。01年第50回河北文化賞受賞。


2016年11月22日火曜日


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