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<斎藤春香>30歳が峠 非情の五輪

アテネ五輪1次リーグ、カナダ戦の6回、三振に倒れる斎藤。最後まで快音は聞かれなかった=2004年8月17日、ソフトボール競技場

 日本ソフトボール界を引っ張った斎藤春香。今も多くの人に慕われ、東京五輪に向け表舞台での活躍を期待する声も少なくない。栄光の軌跡を封印し、古里に根を張って競技普及に身をささげる。その闘いをつづる。(敬称略)

◎敗れざる人(4)選手引退/やれるだけのことはやった

 どんな名選手にも現役を退く時が来る。1996年アトランタ五輪ソフトボールで3打席連続本塁打を放った斎藤春香(46)=弘前市職員=は、30歳を過ぎた頃が峠にさしかかったと言えるかもしれない。

<体の衰え予想以上>
 30歳で迎えた2000年シドニー大会。決勝で大本命の米国と大激戦を演じながらも銀メダルに終わった。国民は「限りなく金に近い銀」と称賛してくれた。だが、斎藤は決勝では4打数無安打。「優勝を逃したのは自分が貢献できなかったから」と自分を責めた。
 34歳となる04年アテネ五輪を目指すとはすぐには言えなかった。迷い、悩んだ末に下した結論は「やっぱりソフトが好き。やめたら金メダルに挑戦できなくなる」。現役続行を決めた。
 しかし、体の衰えは予想以上だった。筋力や動体視力が落ち、体力の回復も遅くなった。具体的な原因を探れば、長年の代表招集で所属の日立ソフトウェアで体を鍛え直す時間を奪われたのが響いたようだ。リーグ戦の成績も下がった。
 ついに03年には会社から監督就任を打診され、いや応なく引退を意識した。
 代表監督の宇津木妙子(63)には「今回で代表は引退するつもり」と伝えた。同年11月、ジャパンカップ(横浜)を最後の舞台と決め出場し、最終米国戦に代打で空振り三振。「最後かと思うと涙でにじみ、ボールが見えなかった」
 それでも斎藤は燃え尽きていなかった。「日立への恩返しとして、リーグでもう一花咲かせたかった」と、年末年始返上で筋力アップのトレーニングに励み、打ち込みも徹底的にやった。その結果、「やれる」という感覚と闘争心が湧いてきた。

<再び代表候補入り>
 年が明けて間もない頃、宇津木から電話をもらう。聞き慣れた声だった。「さいちゃん、元気か。どういう気持ち? 代表、どうする?」。宇津木は招集した若手が思うような成績を出せず、チーム編成に迷っていた。何度か電話をもらっているうち、「もう一度頑張ってみたい」と思い、その気持ちを伝えた。
 再び代表候補入りした斎藤は絶好調だった。3月の沖縄合宿で柵越えを連発。全盛期を超える強い打球に、宇津木は「さいちゃん、すごいよ。何でこんなに変われたのか」と目を見張った。当時の斎藤を、宇津木は「人間の皮をかぶった鬼に見えた」と言う。宇津木はワンチャンスに一振りで王者米国を仕留められる「刺客」に懸けた。
 しかし、夏に迎えたアテネ五輪は非情だった。通算打率2割8厘、長打ゼロ、打点1。各国に研究し尽くされていた。現地の極度の乾燥が斎藤の目を徐々に狂わせた。日本は銅メダルに終わった。
 挫折、悔恨…。心残りはあったが、「やれるだけのことはやったと自分を納得させた」と斎藤。この年のシーズン終了後、バットを置いた。
 3度経験した五輪で得たものは何だったのか。斎藤は答えを導き出した。
 「精神論だけで勝てるほど世界は甘くない。どんな環境でも乗り越えられる者だけが世界一になれる」
 指導者斎藤の挑戦が始まろうとしていた。


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2016年11月25日金曜日


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