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<斎藤春香>監督で「金」うれし涙

北京五輪決勝で宿敵米国を破って悲願の金メダルを獲得し、胴上げされる日本代表監督の斎藤=2008年8月21日、豊台ソフトボール場

 日本ソフトボール界を引っ張った斎藤春香。今も多くの人に慕われ、東京五輪に向け表舞台での活躍を期待する声も少なくない。栄光の軌跡を封印し、古里に根を張って競技普及に身をささげる。その闘いをつづる。(敬称略)

◎敗れざる人(5完)悲願達成/どうやって米国を倒すか、わくわく

 2004年アテネ大会まで3大会連続で五輪に出場した斎藤春香(46)=弘前市職員=は、ついに金メダルに手が届かなかった。それは現役を引退した自身にとって、埋め切れない心の穴のようだった。しかもソフトボールは08年北京五輪を最後に実施競技から外れることが決まっていた。

<選手に自立を促す>
 日本ソフト界にとって、北京五輪は王者米国を倒すラストチャンスだった。
 銅メダルに終わったアテネ五輪後、宇津木妙子(63)の退任を受けて日本代表監督に就いた井川英福(72)は05年春、日立ソフトウェア監督の斎藤に声を掛けた。「代表コーチをやってほしい」。選手に服従を求めた前任の宇津木と違い、斎藤は自主性を重んじていた。井川は「ゆくゆくは北京で監督に」と考えた。
 当時、日本協会専務理事の尾崎正則(71)も同じ考えだった。「人間性を最重視した。『プレーヤーズ・ファースト』を盛んに言っていた斎藤さんが適任だった」
 北京五輪の開幕まであと2年を切った06年12月、「井川総監督、斎藤監督」体制が誕生した。尾崎は「金が絶対目標。銀さえ取れなかったら(斎藤と)2人で津軽海峡に飛び込む」と周囲に語るほど、打倒米国に燃えた。監督を固辞していた斎藤も腹が据わった。「どうやって米国を倒そうか、わくわくした」
 斎藤は井川路線に厳しさと緻密さを加え、特に選手には自立を促した。「指示待ちではなく、逆境でも自ら考え、動けなれけば米国には勝てない」と痛感したからだ。
 就任当初は言葉足らずもあり、選手側には戸惑いが広がった。しかし、決してぶれなかった。周囲が気を使った投打の柱、主戦の上野由岐子(34)=ビックカメラ高崎=、主将の山田恵里(32)=日立=にも厳しく接し、リーダーの自覚を求めた。「日本を背負う2人だからこそ、一皮むけてほしかった。いつかは気付いてくれると思った」

<情報の分析を徹底>
 親心がどう伝わったかは分からない。ただ、上野は北京で、米国と戦った決勝を含む最後の3試合413球を1人で投げ抜き、山田は決勝で本塁打を放った。2人は8年後の今も日本代表を引っ張る。
 一方、斎藤は持ち前の研究心で徹底した情報収集と分析をした。そんな姿をそばで見ていた守備の要、西山麗(32)=豊田自動織機=は「陰で誰よりも選手のためにやっていた」と振り返る。
 選手も「チームづくりを考えよう」と話し合いを繰り返し、選手間の問題は自分たちで解決する成長を見せた。北京五輪を迎えた時、「一人一人が指導者のようになった」(斎藤)。
 そして悲願は達成された。悔し涙を流し続けた斎藤は「生まれて初めてのうれし涙」をボロボロと流した。表彰式後、グラウンドで日米豪の選手が8年後の競技復帰を求める「2016」の文字をボールで描き、「バック ソフトボール」を何度も叫んだ。
 20年東京五輪でソフトボールが帰ってくる。日本協会は新たな役割など、斎藤を生かす方策を模索し始めた。斎藤はそんな期待を受け止めつつ、その先を見据える。
 「24年大会でソフトが実施競技になるかは決まっていない。監督として金を取った自分の役目は、ソフトの魅力を世界の多くの人に伝えること」。スケールの大きなじょっぱりは今後、どんな輝きを放つのだろうか。(敬称略)
(宮田建)


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2016年11月26日土曜日


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