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<日米開戦75年>妻子気遣う 海軍兵の手紙

「この往復書簡を平和教育に役立ててもらえば、父母も本望だろう」と語る友美恵さん

 太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃に参加し、日米最後の艦隊決戦となったフィリピン・レイテ沖海戦で戦死した海軍兵曹長と妻の往復書簡が宮城県大崎市の遺族宅で見つかった。妻や子を気遣う夫と、3人の幼子を一人で育てる妻とのやりとりは百数十通に及ぶ。開戦から75年の年月を経て、遺族は「しかるべき施設に所蔵してもらい、平和教育に役立ててほしい」と願っている。
 手紙の主は、現在の栗原市高清水生まれの大波剛さんと、大崎市田尻出身のみね子さん。2人は親類の紹介で1939年に結婚した。剛さんの艦隊勤務や、みね子さんの里帰り出産で別居期間が長く、40年1月に書簡のやりとりを始めた。
 書簡は2010年に92歳で亡くなったみね子さんの遺品の中から見つかり、末娘の染色作家熊谷友美恵さん(72)=大崎市古川=が保存している。これまで時間をかけて、文章を読み解いてきた。
 1940年10月20日付の剛さんの手紙は、「朝晩の寒さも相当に影響する事であらう。暮々(くれぐれ)も無理せぬ様」と第1子出産を年末に控えたみね子さんを気遣い、「愛する妻へ」と結んでいる。
 日米の関係が悪化しつつあった41年1月26日付の手紙で剛さんは、新鋭潜水艦「伊9」への転勤を命じられたと喜び、「余の最も本懐とする処」と書いた。伊9は機動部隊の前衛として真珠湾攻撃に出撃。みね子さんが「坊やも私も大元気です」としたためた同年12月14日ごろは、米西海岸で輸送船を撃沈する戦果を挙げていた。
 剛さんの手紙で目立つのは、友美恵さんら3人の子どもの教育に関する内容。みね子さんは「(育児が大変で)立ったまま手紙を書いている」などと、日々の苦労を記している。
 44年9月10日付の最後の手紙で、剛さんは「今や戦局愈々(いよいよ)危急を加ふ」「(軍人の妻として)万一の場合ありとも動ぜぬ心構をつくることが大事」と書き残し、軽空母「千代田」に乗り組んでレイテ沖海戦に出撃。44年10月25日、フィリピン北方海域で乗艦と運命を共にした。30歳。戦死時の階級は兵曹長だった。
 友美恵さんは「軍人の遺児イコール悪人の子という視線を浴びて育った。母は何も語らなかったが、手紙を読んで父の情愛の深さを知り、わだかまりが解けた」と話している。


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2016年12月08日木曜日


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