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<満州事変85年>東北の戦争体験継承を

1933年1月8日に満州から仙台に戻った旧陸軍第二師団の凱旋(がいせん)の様子(仙台市歴史民俗資料館提供)を背景に、講演を聞く大崎市鹿島台小児童(右上)のコラージュ。左上は山形県金山町の日輪舎

 日本の中国侵攻と第2次世界大戦突入の発端となった満州事変から85年を迎えた。事変最初の戦死者は宮城県関係者とされ、旧満州(中国東北部)開拓で移住した東北の多くの民間人も悲劇に巻き込まれた。今年は安全保障関連法が施行され、戦後の日本の歩みに転換点がもたらされたとも言える。戦争の記憶が薄れる中、歴史を見詰める意義を考えたい。

 「私は戦争を呪う。幾万人の同胞がこの悲劇のドラマを作っていった」
 満州に開拓団を送った宮城県の旧耕野村(現在の丸森町)の開拓団長を務めた故谷津冬蔵(とうぞう)さんの遺稿を見る機会に恵まれた。
 谷津さんはシベリアに抑留され、強制労働で伐採に従事するなど辛酸をなめた。次男の雄亮(ゆうすけ)さん(82)=丸森町=は「父は満州のことを話したくないようだった」と言う。
 満州で小学生の一時期を過ごした雄亮さんは母と帰国し、7人の兄弟姉妹で唯一、生き残り日本の地を踏んだ。「戦争で苦しみ、犠牲になるのは一般人だ」と語る厳しい表情が脳裏に焼き付いた。
 満州と中国南部で兵役に就いた90歳代の元兵士=同=は、上官の命令で中国人捕虜を銃剣で刺殺したことを告白し「今も忘れられない」と唇をかんだ。戦後71年を経て、体験を語り継ぐ活動は関係者の高齢化で難しくなっている。一方、重い口を開く人には「語れるのは最後」との思いもあるのを感じた。
 記憶の継承で注目されるのが、大崎市鹿島台小の取り組みだ。旧鹿島台村も満州に分村を建設した。学校は10年前から、地元の郷土史関係者の協力で戦争体験者の講演会を開いている。
 住民の肉声を通じた学習は、児童が身近な問題として捉えやすい。20日にあった講演でも、児童の表情は真剣そのものだった。水害と干拓の歴史も関連させており、地域に根差した内容は高い効果がある。
 山形県金山町には、満州に移住する若者の研修所「日輪舎」が現存する。町は10月、日輪舎に関する講座を初開催した。円形木造の建築物の価値に重点を置いた内容だったが、多様なアプローチは関心を持つ市民層を広げる可能性がある。山形県は満州移民が長野県に次いで多く、山形からの発信は意義深い。
 南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)で、新任務「駆け付け警護」が付与された陸上自衛隊11次隊は青森市の部隊が中心だ。満州事変では、仙台に司令部を置いた旧陸軍第二師団が投入された。PKOと満州事変では行動の意味も組織も違うが、東北人が前線に立たされる歴史の巡り合わせを感じざるを得ない。
 戦前の東北は兵馬と食糧の、戦後も労働力やエネルギーの供給地だった。今も東日本大震災と東京電力福島第1原発事故による放射能汚染に悩まされ、国策に翻弄される。
 東北は日本の近現代史を問う最前線だ。研究者の交流の活発化、教育現場や生涯学習の場での関心の高まりを期待したい。(角田支局 会田正宣)

[満州事変と旧満州開拓] 1931年9月18日、中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。これを機に軍事行動を起こし、旧満州を占領。事変の最初の戦死者は、仙台で編成された関東軍独立守備隊第二大隊の兵士とされる。日本は旧満州支配を確立後、開拓移民を奨励し、全国で約32万人に上った。山形県約1万7000人、宮城県約1万2000人など東北は計約6万7000人。


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2016年12月26日月曜日


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