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<仙台いやすこ歩き>(49)ささら飴/昭和天皇が選んだ銘品

 北風ぴゅーぴゅー。滑り込ませたポケットの中で指先が飴(あめ)っこに触れたりすると、それはもう子どものようにうれしい。幼い頃、お駄賃によくもらったのは、ひねった懐紙に包まれた飴っこだった。
 今回は見たい食べたい思いを募らせていた「ささら飴」を求め、仙台市青葉区木町通2丁目にある仙台駄菓子本舗「熊谷屋」を訪ねることにした。迎えてくれたのは熊谷典博さん(45)。なんと熊谷屋の10代目店主である。
 「10代目!」と最初から目を丸くする2人に、穏やかな笑顔で「創業は元禄8(1695)年。今年で321年になります」と話してくれる。仙台空襲で全焼したものの、場所は創業の頃と変わらないそうだ。
 「ささら飴は祖父が郷土菓子を復活させ、新たな意匠で作った商品なんです」。戦後、1957(昭和32)年にようやく熊谷屋の看板を再興し、その年に8代目熊蔵さんが考案して仙台商工会議所の七夕みやげコンクールで特賞を取ったという。ささらとは竹を割ってさらに細く割いたもので、それに飴玉を付け、七夕の竹飾りに見立てるとともに秋の稲穂に例えたとも。
 ここで実際のささら飴の登場だ。残念なことに、竹のささらが手に入らなくなったため、6年ほど前から小分けの袋に入れて販売するようになった。保存されている原形のささら飴は、かれんで、凛(りん)として、アート。飴玉には白、赤、青、緑、黄の5色が流れ、吹き流しを思わせる優雅さがある。
 終戦から12年後の再興に、さまざまな思いが込められたささら飴。それに目を留められたのは昭和天皇、皇后両陛下だった。63(昭和38)年に仙台を訪問された昭和天皇が、浩宮さまへのお土産にとわざわざお買い上げになられたのだという。献上品は少なくないがお買い上げというのはとても珍しく、仙台の誇れる銘品といえるだろう。
 店舗の裏の工場を案内していただいた。戸を開けて進むほどに甘い香りと、職人さんたちの快い笑顔に満たされていく。
 飴作りは水飴と砂糖を鍋で火にかけ、溶かすところから始まる、少し冷まして空気を入れながら練っていくと、透明から白に。そして食紅で色を付けた飴で彩り、のばしていくのだが、素早く均等に入れるのが、まさに職人の技。最後には切って、一個一個を親指で優しく押し、丸ではなくぼんぼり形にしていく。ころ、ころ、生まれる五色の飴に頬が緩まるばかりのいやすこ。
 「気温に左右されるので、ささら飴作りは秋風が吹いてから始めるんです」という言葉に、「飴にも旬があるんだ」とまたしても目を丸くする。
 「ささら職人さんが見つかれば元に戻したいですね」と熊谷さん。世界パッケージデザイン展でも第1位に選ばれたという、クールジャパンならぬクールセンダイともいえる商品の復活を心から待ちたいと思った。
 お土産に頂いたささら飴は、食べるのがもったいないよう。ためつすがめつ眺めてゆっくりと舌に転がせば、2人とも満ち足りた気分で「今年のごほうびだね」とにっこり、師走の街を家路に就いた。

◎仏事の供物が多彩に発展

 飴は約1300年前の「日本書紀」にも登場する古い和菓子である。奈良時代から平安時代の文献には供養料として記載があることから、仏事の供物だったとされる。砂糖のない当時の甘味料は、ツタ草の一種・甘葛(あまずら)で、その汁を煮詰めた「甘い水」が、「飴」の語源といわれる。
 室町時代には飴の行商人が現れ、江戸時代には歌川広重の浮世絵に飴売りの露店が見られるなど、広く庶民に親しまれる菓子となっていった。砂糖が出回るようになったのも江戸時代で、飴は千歳飴や有平糖など多彩な発展をみる。ささら飴も郷土菓子の一つとして古くから愛されてきた。
 熊谷屋の前を通る奥州街道は江戸時代、多くの旅人が往来したと伝わる。文化年間(1804〜1817年)の資料には、周辺の商家の記述に「飴菓子3店」とあり、熊谷屋の長い歴史が知れる。
 (参考文献=新星出版社「和菓子と日本茶の教科書」、里文出版「恋しや駄菓子かりんとう」)

 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2016年12月26日月曜日


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