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<牧田明久>駆け抜けた12年 野心が支え

 東北楽天が創設された2005年度から在籍する最後の選手だった牧田明久外野手(34)が、今季限りで現役を引退した。経営難の近鉄がオリックスとの合併を発表したことに端を発した球界再編問題により04年秋、近鉄から新球団に入った。施設も戦力も不十分だった黎明(れいめい)期から地道に力を付け、13年には日本シリーズで本塁打を放って球団初の日本一に貢献した。引退後も仙台に根を下ろす牧田の野球人生は、チームの歩みそのものとも言える。牧田の12年をたどり、東北楽天の歴史を重ね見る。(浦響子)

◎新天地へ/自分で希望した。後悔は全くない

 左胸に「楽天」のワッペンを貼り付けただけの、真っ白な急造ユニホーム。ズボンは選手の旧所属球団のもので、よく見れば脇に入るラインがまちまちだった。プロ選手らしからぬ格好にスタンドから「高校球児みたい」との声が飛んだ。
 2004年11月。東北楽天の秋季キャンプは藤井寺球場(大阪府藤井寺市)で行われた。近鉄とオリックスの合併に伴い誕生した新球団の最初の一歩。参加選手40人は、分配ドラフトで存続するオリックス側のプロテクト(優先保有)から漏れた両球団の選手だ。新天地・仙台で野球人生の「逆転劇」を期して、静かに闘志を燃やしていた。
 当時22歳の牧田もその一人だった。
 高卒4年目。福井・鯖江高から近鉄入りしたが、1軍未出場。外野の選手層は厚く、1軍で活躍する将来像が見えなかった。分配ドラフト前の希望調査では、迷わず新球団移籍と答えた。
 「楽天の方がチャンスがあるはず」。不安より、プロとしての野心が勝った。
 半世紀ぶりに誕生した新球団。練習環境など、想像以上の過酷な状況も、乗り越えた。
 最も難儀したのが、仙台市内の自宅から当時の2軍本拠地だった山形県内への移動だ。夏まで球団の直通バスがなく、仙台−山形間の高速バスなど3本を乗り継いで往復した。試合が午後開始でも出発は午前6時。帰りは夜遅くになった。
 2軍の練習場、天童市の山形県総合運動公園野球場ではロッカールームがプレハブ小屋で、練習後の体をケアするトレーナー室もなく、野外で行った。極め付きはシャワーで、一般利用者が使う公衆のコイン式シャワーに毎回100円玉を入れて汗を流した。「プロの環境ではなかった。それでも、自分で希望して来た所だから後悔は全くなかった」
 狙い通り、チャンスは1年目から訪れた。1軍は大型連敗を繰り返し、8月には単独最下位が確定。若手に出場機会が与えられ、牧田は7月に1軍デビュー。この年、13試合に出場し、プロ生活の実質的なスタートを切った。
 それから11年。出場試合は691を重ね、気付けば最後の創設メンバーとしてファンに愛される選手となっていた。
 「(プロで)10年できるよう頑張る」と宣言して福井の実家を出た。「10年と言って16年やった。大したもんだ」。引退を決めた後、金型職人の父親からねぎらいのメールが届いた。
 「楽天に来なければ、こんなに長くできなかった」。12年前、仙台行きを決めた牧田の選択は吉と出た。

東北楽天と牧田の歩み

2016年12月27日火曜日


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