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<さとう宗幸>青葉城恋唄 歌手人生の転機に

「青葉城恋唄」が大ヒットし、多忙を極めていたころ=1978年

 大ヒット曲「青葉城恋唄」で知られる宮城県大崎市古川育ちのさとう宗幸さん(67)。「宗さん」の愛称で多くの人々に親しまれ、シンガー・ソングライターとしてだけでなく、俳優、テレビ番組の司会者と、さまざまな分野で活躍している。2018年にはデビュー40周年を迎える宗さんに、これまでの半生の喜怒哀楽を振り返ってもらった。

◎談 人生 仕事(2)

――コンサートを企画してもなかなか人が集まらず、苦節の日々が続いたが、29歳の時に転機が訪れる。ディスクジョッキーをしていたラジオ番組からヒット曲「青葉城恋唄」が生まれた

<5分ほどで曲完成>
 NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」で、リスナーから寄せられた歌詞に僕が作曲するコーナーがありました。
 そこへ、当時仙台に住んでいた星間船一(本名星捷一)さん=宮城県東松島市=から、「青葉城恋唄」の詩が寄せられました。一読して、仙台の情景と切ない心情をつづった歌詞が心の琴線に触れました。一気に曲のイメージが膨らんで5分ほどでできました。多くの人に愛される曲は、あっという間に出来上がることを実感しました。
 ありがたいことに、その後の反響が大きく、曲が仙台市内で繰り返し流されました。キングレコードのディレクターだった仙台市出身の赤間剛勝さんが気に入ってくれて、とんとん拍子で1978年5月にメジャーデビューが決まりました。
 当初は曲を売り出す戦略として、ダークダックスとの競作でした。「なんとかして3万枚は売りたいね」。仲間とこんな話をしていましたが、一気に火が付き、発売から約半年で100万枚を突破する大ヒットとなったのです。
 当時はマスコミがこぞって「地方の時代」を言いだした時代で、その機運もヒットを後押ししたのでしょう。その年の6月12日に宮城県沖地震が発生。「青葉城恋唄」は、復興ソングの意味合いも持つようになりました。

――「青葉城恋唄」は日本作詞大賞を受賞した

<助言受け大賞受賞>
 当時は1年間で1万曲近くが作られていたと思います。その中での受賞は快挙でした。その陰には作詞家阿久悠さん(故人)のアドバイスがあったんです。
 「青葉城恋唄」の歌詞は、最初は<時はめぐり また夏が来て あの日と同じ流れの岸>でしたが、阿久さんから「時を季節に直して、季節(とき)と読ませるようにしたら」と言われました。「時はタイムでめぐってはこない。この点が審査の段階で問題になるから」というありがたい指摘でした。
 「青葉城恋唄」の大ヒットで生活は一変しました。
日本レコード大賞新人賞を受賞したり、紅白歌合戦に初出場したりして、寝る間もないほど忙しく、東京と仙台を無我夢中で往復する日々でした。当時、長女は幼稚園児でしたが、久しぶりに家に戻ると、ふすまを少し開けて、僕の顔を黙ってじっと見ていたこともありました。自分の意思とは別に何か大きな力に動かされているようでした。
 そんな時でも仙台を離れようという考えは浮かびませんでした。僕が自然体で活動するには、仙台の家族と自然風土は欠かせなかったからです。
 「青葉城恋唄」は今年7月から、JR仙台駅の新幹線ホームの発車メロディーにも使われ、仙台市の音楽家榊原光裕さんの編曲で仙台フィルハーモニー管弦楽団が演奏しています。
 「青葉城恋唄」。それは僕がシンガーとして歩む道筋を付けてくれた大切な曲です。(聞き手は生活文化部・沼倉淳)


[さとう宗幸(むねゆき)]シンガー・ソングライター。本名は佐藤宗幸。1949年生まれ。東北学院大卒。78年に「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。テレビドラマの「2年B組仙八先生」や「独眼竜政宗」などで俳優としても活躍。95年からミヤギテレビの「OH!バンデス」の総合司会者。最新曲は「あ・り・が・と・う・の歌」。仙台市泉区在住。


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2017年01月01日日曜日


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