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<復興を生きる>第二の大川小出さぬ

大川小校舎前で震災当時の状況を説明する佐々木さん(左)と佐藤さん。児童遺族と教員遺族が初めて一緒に語り部をした=昨年12月23日

◎3・11大震災/児童遺族と語り継ぐ 教員遺族の宮教大3年 佐々木奏太さん=仙台市

 「第二の大川小を絶対に出したくない」
 宮城教育大3年の佐々木奏太さん(21)=仙台市宮城野区=が4日夜、仙台市内のホテルの一室で強い決意を胸に語り掛けた。
 埼玉県上尾市の高校1年新田健さん(16)が真剣な表情で耳を傾ける。被災地の現状を知りたいと知人に相談し、東日本大震災の語り部を続ける佐々木さんを紹介された。
 「被災地の風景を見て、においを嗅いで、土を触って、現地を肌で感じ取ってほしい」。佐々木さんは体感することの大切さを訴えた。
 震災の津波で児童74人と教職員10人が犠牲になった石巻市大川小。佐々木さんの父親=当時(55)=は2年生の担任だった。
 「震災の恐怖を伝えることで、父の死が無駄でなかったと感じられる」。2014年4月に大学進学後、学生ボランティアとして大川小など被災地を案内してきた。
 震災当時、佐々木さんは宮城県南三陸町の志津川中3年。母親とは志津川小の避難所で再会できたが、「学校にいるから無事だろう」と信じていた父親との再会はかなわなかった。
 後に父親と判明する遺体は震災から約1カ月後、石巻市の追波湾で見つかった。DNA型鑑定により、身元確認の知らせが届いたのは震災から約1年4カ月後だ。
 「父を含め、先生たちが子どもたちの命を守らなければいけなかったのは事実。ただ、先生たちも心から救いたかったはずだ」。父親が救えなかった命の重さを思うと、児童遺族との交流には踏み出せずにいた。
 転機は14年3月に提訴された大川小津波訴訟だった。仙台地裁判決が近づくにつれ、「児童遺族と会わなければ、大川小で起きた事実に向き合えない」と覚悟を決めた。
 「一度会ってほしい」。16年9月、大川小6年の三男雄樹君=当時(12)=を亡くした佐藤和隆さん(49)に思い切って電話をかけた。判決を1カ月後に控えていた。
 佐藤さんは突然の電話に驚きつつ、「教員の遺族と実際に言葉を交わし、しっかりと向き合っていると感じた」と振り返る。
 佐々木さんは昨年12月23日、佐藤さんと共に関西から訪れた友人2人を大川小に案内した。教員遺族と児童遺族が初めて一緒に語り部をした瞬間だった。
 「教員遺族という後ろめたさを感じず、生かされた者として震災の記憶を伝えていってほしい」。佐藤さんが佐々木さんの背中を優しく押す。
 「父が受け持っていた子どもたちの命を無駄にしたくない。私たちにできるのは、震災を後世に伝え、未来の命を守ること」
 佐々木さんは語り続ける。
(報道部・畠山嵩)


2017年01月08日日曜日


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