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<円谷幸吉>踏ん張り 高校で形成

自衛隊全国管区対抗駅伝で第6管区隊代表として2区の斎藤(中央)にたすきを渡す1区の円谷(左)=1960年12月、山梨県・河口湖畔

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎敗れざる人(3)ランナーへの目覚め/長距離走に適した資質

 東北人らしい粘り強さ、親譲りの勤勉さ、我慢強さ…。円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940〜68年)は長距離走者として必要な資質を持っていた。しかし、それがつぼみを付け始めるのは遅く、高校2年の時だ。
 陸上という競技との出合いは福島県中地方であったマラソン大会だった。須賀川高2年から自主練習を始めた円谷が腕試しで出場。やみくもに走り結果は散々だったが、汗一つかかない姿に福島県南陸上競技協会幹部が「将来大物になるかもしれん」と目を付けた。
 報告を受けた須賀川高陸上競技部はすぐに入部の勧誘に動く。ここからランナー円谷の号砲が鳴った。
中央では予選落ち
 根が真面目なだけに、専門的な指導を得れば成績は日に日に向上する。県縦断駅伝大会で区間賞、須賀川牡丹マラソン大会高校の部2位、県高校総体5000メートル3位、東北大会6位。実力は東北レベルになった。
 結果が出れば欲も出る。県レベルで勝てても中央で予選落ちが続くと、「一度でいいから中央でトップ争いをしたい」と、いつしか中央を意識し始めた。
 成績頭打ちの原因は明白だった。円谷の性格だ。最初はがむしゃらに飛ばし、最後は下位に落ちる。拙いレースぶりは、なかなか直るものではない。
 兄の喜久造(84)=須賀川市=は遠い昔の兄弟の会話を思い出す。ある日、幸吉から「どうしたら速く走れるのか」と尋ねられ、喜久造は詳しかった競馬を例えに出し、「競走馬は最後の1分を我慢して全力で走ることで強くなる。人間も最後の1分を我慢して走れば心臓や体が、そして心も強くなる。それを2分、3分と伸ばしていったらいい」と助言した。
 円谷の代名詞、悲壮なまでの「最後の踏ん張り」は、生来の気質に輪を掛け高校時代に形作られていった。ただ、この我慢への固執が選手生命を縮める危険性もはらんでいた。
陸上自衛隊に入隊
 高校卒業を間もなく迎えようという頃、駅伝が盛んだった常磐炭鉱(福島県いわき市)を志望したものの、なべ底不況で不採用。競技人生はこの時、花咲かせる時機を逸するかに見えた。
 しかし、街角で自衛隊員募集のポスターを見て応募したことで、運命の歯車が再び回り始める。
 陸上自衛隊郡山駐屯部隊第6特科連隊(福島県郡山市)。円谷の配属先だった。陸上部も、トラックもない。
 1年目の秋、隊舎の前で縄跳びをしていると、3曹斎藤章司(83)=郡山市=から「何をしているんだ」と声を掛けられた。「マラソンの練習です」。直立不動で答えた。陸上未経験だった斎藤は興味を持ち、新隊員の面倒を見てやろうという軽い気持ちで「少し一緒に走るか」と誘った。
 翌日以降も2人は一緒に走り続けた。斎藤は、当時でも珍しいくらい礼儀正しく人懐こい笑顔の青年に引き付けられ、長距離走にのめり込んだ。休日には20キロ離れた円谷の実家まで走り、母ミツの手料理を食べて帰った。円谷の人生の中で、この頃が走ることを純粋に楽しめた最後の時、だったのかもしれない。
 斎藤はその後、駐屯地内で陸上部創設に尽力。時に先輩として、時に好敵手として円谷を支えた。
 出会いは東京五輪の5年前。円谷にとって最初の伴走者となった。


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2017年01月11日水曜日


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