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<円谷幸吉>スピードで頭角現す

固い信頼関係で結ばれた自衛隊体育学校時代の畠野(左)と円谷

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎敗れざる人(4)マラソン転向/2万mの世界記録破る

 円谷幸吉(1940〜68年)は陸上自衛隊の郡山駐屯地(福島県郡山市)時代、ランナーとして着実に成長を遂げる。5000メートルで60年熊本国体5位、61年秋田国体2位。秋田国体1カ月後の青森東京駅伝では3区間を走り、計15人抜き、全て区間新という離れ業をやってのけた。

<環境整い練習没頭>
 円谷は翌62年、自衛隊体育学校が五輪選手養成のために新設した特別体育課程に入る。陸上に専念できる環境がようやく整った。
 朝日新聞社で長く陸上記者を務めた三島庸道(86)=東京都=によると、円谷を一流選手に押し上げたのは体育学校コーチの畠野洋夫(故人)だという。「円谷はがむしゃらで周りが見えない。褒め上手で緻密な畠野が必要だった」
 畠野は現役時代、無名の長距離選手であった。だが、陸上競技連盟やライバルのコーチにも頭を下げ、練習法を独自に学んだ。身の回りの世話や腰の持病の管理もきちんとやった結果、円谷は練習に没頭できた。記録更新が続き62年の日本選手権は5000メートル、1万メートルで大会新で優勝を飾る。
 トラックで活躍する円谷への注目が高まる一方で、周囲ではある意見も出始めた。マラソンへの転向だ。
 28年アムステルダム五輪三段跳び金メダリストで、東京五輪の陸上日本代表総監督を務める織田幹雄(故人)は60年ローマ五輪の記録を見て、マラソンが耐久レースからスピード競走の時代に入ったと認識していた。「ロード出身の選手は東京で勝てない」。円谷が鍵を握る選手に見えた。

<織田ら強力後押し>
 織田は地ならしを始めた。マラソンとトラック関係者との間にあった垣根を、陸連の選手強化指導本部長としてより低いものとした。今でこそトラックもロードも走る選手は当たり前だが、当時ではほとんど例がなかった。いわば外堀を埋めた形とし、あとは円谷の成長を待つばかりだった。
 織田の強力な後押しで、円谷はトラック選手ながら東京五輪前年の63年、陸連によるマラソン組のニュージーランド合宿に参加。記録会で、ザトペック(当時チェコスロバキア)が持つ2万メートルの世界記録を破った。日本人があの「人間機関車」を抜いた−。世界が衝撃を受けた。円谷はスピード時代に対応できる世界レベルの選手に成長した。
 最後にプッシュしたのは、同じ東北生まれで53年ボストンマラソンを制した山田敬蔵(大館市出身)だった。
 実は61年の青森東京駅伝で円谷と同じ区間を走り、抜き去られた経験を持つ。先を疾走していく円谷の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。東京五輪のマラソンを心配する山田は64年に入って間もなく自衛隊体育学校を訪れ、校長に円谷のマラソン転向を進言した。
 山田のあまりの熱弁ぶりに校長が折れた。円谷の遠征先に電話して意向を確認すると、きっぱりと「ぜひ、やってみたい」。記者の三島は回想する。「山田さんは『東北からすごい若手が出てきた』とうれしそうに話していましたよ」
 円谷は後日、三島に「どうしてマラソンをやる気になったのか」と聞かれ、こう答えた。「日本人が世界で戦うにはマラソンしかないじゃないですか」。三島は「もともとマラソンへの憧れがあったが、ニュージーランドの成功で自信が付いたようだ」とみる。
 円谷は以後、マラソンで中日名古屋5位、毎日2位となり、五輪代表となる。代表3人は粘りの君原健二(75)=八幡製鉄=、経験の寺沢徹(82)=倉敷レイヨン=、そして「スピードの円谷」と称された。(敬称略)


2017年01月12日木曜日


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