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<円谷幸吉>3位転落 歓声 悲鳴に

東京五輪マラソン。国立競技場のゴール直前でヒートリーの猛追を受ける円谷。気力だけで走っていた=1964年10月21日

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎敗れざる人(5)東京五輪の重圧/マラソン 異様な盛り上がり

 アジア初の五輪。1964年東京大会は戦災復興を世界にアピールする国家プロジェクトだった。国民は、その晴れの舞台を心待ちにした。

<冷静さ失った君原>
 マラソンは今も昔も五輪の華だ。それが日本開催となれば、国民やマスコミの熱狂ぶりは尋常ではなかった。メダルを期待されながら8位に沈んだ君原健二(75)=当時八幡製鉄=。その後メキシコ、ミュンヘン大会を経験し、「東京は異様な環境の中での戦いだった」と語る。
 「ステート・アマ養成機関」ともやゆされた自衛隊体育学校特別体育課程。在籍する円谷幸吉(福島県須賀川市出身、1940〜68年)にとって入賞は「任務」でもあった。
 体育学校の同僚で後に校長を務めた重量挙げ金メダリスト三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は振り返る。「自分のために戦う意識はなかった。国のためであり、金メダルは自分の使命だった。その責任の重さは半端じゃなかった」
 長距離で五輪代表から漏れた体育学校の同僚、宮路道雄(79)=千葉県八街市=は上官から「とにかく、国立競技場に日の丸を揚げたい。円谷に協力してくれ」と言われたのを覚えている。「自衛隊を国民に浸透させる目的もある」。そういう認識だったという。
 マラソン代表3人はレース1週間前、ざわつき始めた選手村を離れ、神奈川県逗子市で調整した。
 間もなく「本命」君原が自分を見失う。練習を終えると、電車で2時間かけ東京へ行き、各競技を観戦した。体がもたないとコーチが判断し、君原と寺沢徹(82)=当時倉敷レイヨン=は選手村に戻った。落ち着きのない行動は直前まで続いた。「完全に舞い上がっていた」と君原。一方で「円谷さんは冷静だった」とも。
 円谷は掛け持ちの1万メートル出場が奏功したといえる。6位。トラック種目で28年ぶりの五輪入賞。大舞台での大健闘に肩の荷が軽くなった。コーチの畠野洋夫(故人)は緊張をほぐそうと円谷に「これで責任の大半は果たした。マラソンは君原に任せろ」と伝えた。

<高速レースに疲弊>
 10月21日、どんよりとした曇り空の下、マラソンが始まった。序盤から高速レースの様相を呈した。金メダルは予想通りアベベ(エチオピア)。世界最高記録による2連覇だった。
 観衆の目は2位以下の争いに注がれた。円谷は25キロ地点で4位、30キロで3位通過、36キロで2位に浮上し、そのまま国立競技場へ。しかし、経験のないハイペースでスタミナは限界だった。第3コーナーで後方からスパートしてきたヒートリー(英国)に抜き去られた。歓声は悲鳴へ。抜き返す力はもうなかった。
 レース後、宮路は円谷から聞いた。「(ヒートリーの存在を知らせる)観客の叫びは『頑張れ』という声援にしか聞こえなかった」
 あの時、円谷は一度も振り返っていない。「後ろをきょろきょろ見るような、めぐせえ(見苦しい)ことはすんな」。少年時代の父の教えが耳に届いたのだろうか。
 記者会見で円谷は「メキシコ五輪で雪辱したい」と言った。傍らで畠野は「あと4年たてば、ちょうど年齢的にトップの時」と補った。
 銅メダルとはいえ、競技場で敗れたレース。栄光の陰で24歳の円谷は途方もない期待の重さに悩まされていく。(敬称略)


2017年01月13日金曜日


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