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<円谷幸吉>破談を機に 心身疲弊

東京五輪マラソンで銅メダルに輝き、古里でパレードをする円谷(中央)=1964年11月、須賀川市中心部

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎敗れざる人(6)別れ/「国民的英雄」故の苦しみ

 東京五輪で国民的英雄になった円谷幸吉(須賀川市出身、1940〜68年)。祝賀会、招待レースと多忙を極めた。自衛隊体育学校の同僚だった宮路道雄(79)=千葉県八街市=は当時の状況を「円谷は全自衛隊の代表。自衛隊が国民に溶け込む役目を期待されていた」と説明する。

<恩師が札幌へ異動>
 そんな中、問題は起きた。最愛の女性との別れだ。
 郡山駐屯地の元同僚。五輪前から手紙を送るなどして愛を温めてきた。63年のニュージーランド合宿では帰途にダイヤモンドの指輪を買った。姉の岩谷富美子(82)=東京都=は「弟はにこにこ顔で『婚約指輪はいつ渡せばいいの?』って言っていました」と思い出す。
 東京五輪から1年半たった66年の春。体育学校の新しい校長が円谷の結婚について話し合うため、円谷家や相手方の親族に声を掛け、ある席を設けた。幹部候補生学校に進んでいた円谷は欠席した。
 円谷の遺族らによれば、校長は席上、「メキシコ五輪が終わるまで結婚は反対」「世界の円谷と結婚する覚悟はあるのか」「五輪前にどうしても結婚と言うのなら式場は東京」などと主張。これに円谷の父幸七が反発した。「地元でやる」
 校長と円谷家側のやりとりは平行線をたどるばかり。女性側は元々、結婚には慎重で「上官が反対するのなら」とこれを機に縁談の白紙を申し入れた。
 この件で円谷寄りの姿勢を取ったコーチの畠野洋夫(故人)は校長と衝突し間もなく札幌へ異動。円谷は恩師さえも失った。
 この頃、円谷が古里の長兄に宛てた手紙に心情を赤裸々につづっている。「公私を混同された学校長のもとではやれない」と怒り、自衛隊に対しても「方々を引っぱり廻して英雄視させる」と不満をぶちまけた。
 さらに引退もほのめかした。「一応次の目標を目指すとは云ったものゝ(中略)疲労こん敗でいさゝかの余裕すらありません」「各方面からの期待はありましても、一線クラスとしてこれ以上続けるには無理」「一般部隊へ行ってのんびりした気持で若者達と純すいな気持でやりたいと云うのが私の夢」
 後に体育学校長も務めた同僚の三宅義信(77)=宮城県村田町出身=は回想する。円谷は心身が疲弊しきっていて、「『この際、引退して指導者になった方がいい』って助言した」。さらに「円谷は管理されていた。自分で決められなかった」と同情する。

<過度な練習で故障>
 失意の円谷は66年9月に幹部候補生学校を卒業。思い詰めた表情で郡山駐屯地を訪れ、かつて陸上部創設で力を合わせた斎藤章司(83)=郡山市=に「メキシコへ向けた第一歩として、昔の練習コースを一緒に走りたい」と言った。約10キロ。少しだけ笑顔が戻った。2人が会ったのも伴走したのも、これが最後だった。
 君原健二(75)=北九州市在住、当時八幡製鉄=が円谷と最後に対決したのは67年5月の全日本実業団選手権。円谷は5000メートル、1万メートル、2万メートルと2日間で4レース(予選含む)をこなした。控室では「メキシコで日の丸を揚げ、国民との約束を果たす」と話したという。
 君原には円谷がもがいているように見えた。「異常な出場数。(円谷の)焦りを感じた。メキシコでの金は国立競技場で抜かれたことの国民へのおわびだったのでは」と思っている。
 円谷の体は悲鳴を上げていた。遅れを取り戻そうと過度な練習を重ねた結果、椎間板ヘルニアが悪化し、アキレス腱(けん)も部分断裂。8月に手術し入院は3カ月にも及んだ。だが、思うように回復しなかった。
 67年12月、衝撃的なニュースが飛び込む。福岡国際マラソンでクレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒4の記録で優勝。ついに9分台に突入した。
 年末、孤独なランナーは敗北感に打ちひしがれながら古里に帰る。(敬称略)


2017年01月14日土曜日


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