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<円谷幸吉>ひたむきな姿 後世に

円谷幸吉メモリアルマラソン大会出場後、円谷メモリアルホールで円谷の写真を見上げる君原=2016年10月16日、須賀川市牛袋町の須賀川アリーナ

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎敗れざる人(7)完 自死/強さと弱さ見せ 時代疾走

 1967年末、須賀川市に帰郷した円谷幸吉(1940〜68年)には落ち着きのない不自然な様子がうかがえた。姉の岩谷富美子(82)=東京都=は「家族でだんらん中に姿を消し、戻ってこなかった時が何度かあった」と振り返る。

<切ないまでの叫び>
 円谷は正月、2年前に破談した女性が結婚したことを知る。同時に、父幸七主導で地元女性との縁談が進められていた。
 実は地元に「お茶入れ」という儀式がある。結納前に新郎が高級茶葉を新婦に送り、新婦が飲んだら茶葉を送り返す。帰省中、円谷は父に茶を飲むように言われたが飲まずに帰京した。
 悲劇は起きた。1月9日午前、円谷は自衛隊体育学校幹部宿舎(東京都練馬区)の自室で首をカミソリで切って死んでいるのを発見された。死亡推定は8日。
 部屋には親族と体育学校上官に宛てた遺書があった。親族へは切ないまでの叫びがつづられていた。「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」
 富美子は当時を思いだし涙を浮かべる。「国民に『メキシコで頑張る』と言わなきゃ良かったのに。真面目だから『一度始めたら最後までやり通せ』という父の教えを守ろうとしたんだと思う」
 円谷の初任地、郡山駐屯地で一緒に走った斎藤章司(83)=郡山市=は「走ることが彼の人生そのもの。走れなくなったことで生きる意味を失ったのかもしれない」と推し量る。
 東京五輪の英雄の自死は社会に衝撃を与えた。「故障が治らず悩んでいた」「自衛隊や校長に殺された」「女性の結婚がショックだった」と臆測を呼び、勝利至上主義への警鐘が鳴らされた。
 遺書の内容については文化人の琴線に触れた。川端康成は「遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」(雑誌『風景』)、三島由紀夫は「美しい自尊心による自殺」(産経新聞)と評した。
 異色だったのが詩人・評論家の松永伍一。論文「血族共同体への回帰とその反逆」で指摘した。「虚像の自己にあいそをつかし実像のなかにはいっていくことによって、国家権力から自由になった己を見たのではあるまいか」。命を絶つことで「国民との約束」「自衛隊の任務」という呪縛を断ち切った、ということなのだろうか。

<君原が雪辱果たす>
 円谷は今も人々の心に息づく。
 68年メキシコ五輪で銀メダルを手にした君原健二(75)=北九州市=は話す。「メキシコで誓った。『このレースに最も出たかったのは円谷さんだ。円谷さんのために走る』」。その結果、「円谷さんからインスピレーションをもらった」と言う。
 レースは君原が2位で競技場へ。入場直前に振り向き、迫る3位の選手を確認した。円谷と同様に普段なら振り返らないのに、後ろを見た。2位を死守した君原は円谷の雪辱を果たしたと思っている。
 君原は10月に須賀川市である円谷幸吉メモリアルマラソン大会に毎年出場する。前日は墓参り。円谷が好きだったビールを半分飲み、残りを墓石に掛け、「元気にやっています」と報告する。君原なりの供養だ。
 1月、東京箱根間往復大学駅伝を走った須賀川市出身の阿部弘輝(明大、学法石川高出)は「円谷さんの存在は大きな励み。いつかマラソンに挑戦し、第二の円谷と言われたらうれしい」と目標に据える。
 日本陸連で現在、長距離・マラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務める瀬古利彦(60)=DeNA総監督=にとっても円谷の存在は大きい。「円谷さんや君原さんのおかげで今のマラソン界がある。ひたむきな姿を若い選手に伝えていく」と決意する。
 日本の戦災復興を世界に示した64年大会から半世紀余り。円谷は人の持つ強さと弱さをいろいろな場面で見せ、時代を疾走した。2020年東京五輪へ向け、その姿から得るものは決して少なくない。(敬称略)


2017年01月15日日曜日


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