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<回顧3.11証言>不意の濁流、幹線道襲う

都市部の幹線道路を襲った津波は数え切れない車をのみ込み、押し流した=2011年3月18日、宮城県多賀城市町前

 東日本大震災で、宮城県多賀城市では津波による死者が185人に上り、塩釜市など近隣の港町を上回った。仙台港に近接し、市中心部の海抜は5メートルに満たないが、海に面するのは砂押川の河口付近だけだ。「海の街」のイメージが薄い多賀城市で、なぜこれほどの犠牲者が出たのか。住民らの証言からは、都市部の危うさが浮かび上がる。(中村洋介、加藤伸一)

◎多賀城の津波(上)

<渋滞>
 2011年3月11日午後、多賀城市を横断する幹線道路、国道45号と県道仙台塩釜線(産業道路)では、大渋滞が起きていた。年度末の週末で交通量が多かった上、地震で信号が止まった。
 車窓の外はマンションや大型店などの建造物だ。海は見えない。濁流は不意を突き、人と車がひしめく大動脈を襲った。市内の津波による死者は、国道45号と産業道路沿いに集中した。
 多賀城市桜木の会社員新田恵さん(39)は地震後、家族が心配になり、車で自宅に向かった。国道45号に差し掛かると、渋滞に巻き込まれた。
 動かない車の列に突然、タクシーが飛び込んできた。
 「強引に割り込んできた、と思ったら、黒い水に押し流されてきた車両だった。すぐに自分の車も水に浮いた」と新田さんは振り返る。
 周囲の数え切れない車が津波にのまれた。新田さんの車は、他の車とぶつかって回転。住宅の塀にぶつかって止まった。幸運にも運転席側が塀で、そこにはい上がることができた。

<悲鳴>
 塀の下の水かさは次第に増し、濁流が目の前の交差点で大きな渦を巻いた。新田さんの車も渦の中に沈んだ。
 「水没した国道45号のあちこちから『助けて』と悲鳴が聞こえたが、どうしようもなかった。暗くなるにつれて、何も聞こえなくなった」
 想像さえできなかった惨劇と雪に震えていた午後9時ごろ、自衛隊のボートで塀の上から救出された。
 新田さんは「生まれも育ちも多賀城だが、津波が来るという実感がなかった。多賀城も海沿いにあるという意識を持つべきだった」と話す。

<伝う>
 多賀城市町前のすし店経営浦山淳さん(40)は地震後、余震を警戒し、店の前の産業道路に出た。「津波だ、早く上がって来い」。パチンコ店の立体駐車場の上階に集まった人たちが叫んだ。浦山さんも駆け上り、海側を見つめた。
 「1キロ先の仙台港を超えた津波が、大型店など建物の間をはうようにして産業道路に迫った。建物を壊す感じではなく、道路伝いに流れる感じだった」
 濁流は産業道路に押し寄せた。車から降りず、脇道などに車で逃げようとしている人が多かった。浦山さんは当時の状況を思い出し、嘆いた。
 「何度も『車を捨てて逃げろ』と叫んだ。何台もの車が人が乗ったまま流された。水が引いた翌日以降、車の中で亡くなっている人がかなり見つかった」=2011年5月13日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月13日月曜日


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