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<回顧3.11証言>都市的環境 被害を拡大

宮城県多賀城市内で死者が確認された場所

 東日本大震災で、宮城県多賀城市では津波による死者が185人に上り、塩釜市など近隣の港町を上回った。仙台港に近接し、市中心部の海抜は5メートルに満たないが、海に面するのは砂押川の河口付近だけだ。「海の街」のイメージが薄い多賀城市で、なぜこれほどの犠牲者が出たのか。住民らの証言からは、都市部の危うさが浮かび上がる。(中村洋介、加藤伸一)

◎多賀城の津波(下)

 住民の証言や痕跡によると、多賀城市を襲った津波は仙台港の高松埠頭(ふとう)や中野埠頭から北西方向になだれ込み、市内に入った。高さは約4メートル。仙台港に最も近い宮内地区では家屋がなぎ倒されるほどの威力だった。
 多賀城市中心部に到達すると、住宅やマンション、商業施設の間の道路が水路代わりになり、広がった。国道45号や産業道路沿いには倒壊した建物がなく、津波の威力はやや弱まったとみられるが、高さは2メートルほどあった。建物の1階部分は浸水し、車が流された。
 同時に、津波の一部は河口から砂押川をさかのぼった。陸上自衛隊多賀城駐屯地とその周辺を浸水させ、さらに上流の桜木2丁目周辺では土手を破壊。南側の市中心部に流れ込んだ。
 市中心部は、仙台港側と砂押川側から入った二つの津波に南北から挟まれ、ほぼ全域が浸水。浸水面積は約660ヘクタールで市域の3分の1に上った。
 多賀城市によると、渋滞の車が波にのまれた国道45号と産業道路のほか、仙台港背後地の工場がある宮内地区などでも死者が出た。市内の犠牲者185人のうち、市外に住む人が93人と半分以上を占めた。ほかの被災市町村にはない傾向だ。
 市災害対策本部は「浸水域には通行量の多い幹線道路や大規模な工場がある。仙台など近隣に住む人が多賀城を通り掛かったり、勤め先の工場で仕事をしていた時に津波に襲われたケースが多い」と分析する。
 都市部の環境が、被害を広げた要因になったという指摘も多い。海岸から約1キロの明月地区に住む斎藤冨男さん(67)が地震後、外に出ると、目前に津波が迫っていた。慌てて向かいのマンションに駆け上がって助かった。
 斎藤さんは「海が近くても工場や住宅に囲まれ、海への視界は遮られている。津波は建物の間から突然、姿を現した。気付いた時には目の前で、逃げられなかった人もいたはずだ」と語った。

●想定と違う浸水域 防災広報装置ダウン

 多賀城市は2009年、「洪水・津波ハザードマップ」を作製し、市内の約2万4300世帯に配布した。マップでは、津波は仙台港の高松埠頭付近と砂押川から侵入し、仙台港周辺と河口のごく一部が浸水すると想定していた。
 東日本大震災の津波は侵入域こそ想定通りだったが、浸水域は全く違った。
 市中心部で、浸水が想定されていなかった八幡地区の行政区長鈴木邦彦さん(67)は「大津波警報を聞いても不安には思わなかった。津波が仙台港を超えても、ここまでは来ないと信じていた」と言う。
 津波の襲来も十分に伝わらなかった。
 市災害対策本部によると、2011年3月11日午後2時46分の地震発生から約15分後、市内13カ所に設置していた防災広報装置のうち9カ所が機能停止に陥り、午後4時半すぎには全てダウンした。
 防災広報装置は電話回線を使っていたため、地震で通信不能になった。マイクやアンプが内蔵された操作盤は高さ1.5メートルに置かれ、津波で海水に漬かった。
 市災害対策本部は「災害の連絡機能も含め、防災計画を見直さなければならない」と語る。
 砂押川をさかのぼった津波は、河口から約5キロ上流にある国府・多賀城跡の下の河原にも船を打ち上げた。
 市にとっては、想定をはるかに超えた事態だったが、869年の貞観地震では、多賀城の正門近くまで津波が押し寄せたとの記録が残っていた。=2011年5月13日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月13日月曜日


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