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<回顧3.11証言>初動に遅れ 被害拡大

近くの住民が撮影した「さんりくの園」中庭の様子。津波襲来前の2011年3月11日午後3時ごろとみられる=岩手県大船渡市三陸町

 東日本大震災で、岩手県大船渡市三陸町の特別養護老人ホーム「さんりくの園」は入所者67人のうち50人以上が津波にのまれた。地震当日、生存が確認されたのは16人。施設が現在把握している死者・行方不明者は、震災後に亡くなった人も含め54人に上る。入所者は要介護度4以上で、平均年齢は88歳。関係者の証言によると、津波の襲来に気付いた職員が必死に車いすを押したが、濁流は避難を待ってくれなかった。(宮崎伸一、坂井直人)

◎大船渡・特養ホームの惨劇(下)

 大船渡市三陸町の特別養護老人ホーム「さんりくの園」の津波による死者・行方不明者54人は、大船渡市全体(462人、22日現在)の1割以上を占める。証言からは、入所者の自力避難が困難な中、津波の情報を入手できなかったため、避難の初動が遅れ、被害の拡大につながったことが浮かび上がる。
 大船渡市三陸町の小松正さん(67)は地震直後、母の昌子さん(93)の安否を気遣い、さんりくの園の中庭に駆け付けた。
 最初は音もなく足元に水が流れ込んだ。流される母の車いすを追いかけようと踏み出すと、足をすくわれた。次の瞬間、ドカーンと衝突音が響き、6、7メートルもの波にのみ込まれた。
 気が付くと建物の中に押し流され、ホールでうつぶせになっていた。額はがれきで傷つき、血が一面に広がっていた。
 「おふくろ! おふくろ!」。ありったけの声を出して何度も呼んだ。応答はない。ホールにはがれきが積み重なり、ひっくり返った車がクラクションの音を響かせていた。
 2日後、母は遺体で見つかった。
 小松さんは、施設に向かう途中の車内ラジオで大津波警報の発令を知った。「職員は走り回っているが、何をしていいか分からないように見えた。津波が来るという切迫感は感じられず、ラジオが伝える内容とギャップがあった」と指摘する。
 入所者という立場もあり、施設の指示を待つべきか、母を連れて避難すべきか迷った。
 「自分たちだけでも逃げていれば良かったとも思う。職員はもっと機敏に対応してほしかった」。小松さんは施設の避難誘導に不信感も抱く。
 入所者の生存者の一人、佐熊英子さん(77)は思い出す。地震の時はトイレにいた。
 「誰か残っている人はいませんか」と施設内を確認して回る職員の声を聞いた。「佐熊英子、トイレにいます」と声を張り上げた。
 「ハア、ハア、ハア」。車いすを必死に押して坂を駆け上がってくれた女性職員の息遣いが今も耳の奥に残る。
 翌日、佐熊さんは新聞で多くの人が犠牲になったことを知り、胸を痛めた。「自分では何もできなかった。私の体は重かったろうに、本当に申し訳ない。職員にただ手を合わせ、感謝したい」
 津波は市役所三陸支所、保育園、小学校などのほか、商店や家々をのみ込み、津波浸水想定区域いっぱいの施設にまで達した。施設では職員1人も命を落とした。
 「大惨事になった責任は大きい。被害に遭わないためには、高台に施設をつくること。避難訓練や輸送手段は次の話だ」。及川寛次郎施設長(64)は両手で顔を覆い、声を震わせた。
 さんりくの園の事務室とホールにある二つの時計は、津波が襲い、入所者の生死を分けたその時、午後3時26分を刻んだまま止まっている。=2011年5月23日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月14日火曜日


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