宮城のニュース

<回顧3.11証言>伝説の「島三分断」寸前

カーフェリーや旅客船が打ち上げられた浦の浜港=2011年4月5日、宮城県気仙沼市の大島

 「大津波が来たら、島は三つに分断される」。宮城県気仙沼市の大島に残る伝説を、多くの島民は半信半疑で受け止めていた。東日本大震災で大島を襲った津波は、20メートル近い高さとなって中央部で合流して島を分断、さらに南部でも合流寸前まで迫った。伝説は命を守るために語り継いできた教えだった。島のシンボルであり、多くの住民が避難した亀山は火災に見舞われた。「島が焼き尽くされる」。島民は覚悟した。(田柳暁)

◎気仙沼・大島の津波(上)

<孤島>
 2011年3月11日の本震後、浦の浜港近くの高台に住む主婦菊田栄子さん(75)は港を見続けた。海面が大きく盛り上がり、港に停泊した100トン近いカーフェリーが持ち上がった。桟橋は橋げたが海底から引きはがされ、陸地になだれ込んだ。
 菊田さんは「真っ黒な高い壁となった津波の中に巨大なフェリーや桟橋が見えた。一緒にのみ込まれた車が小さな葉っぱに見えたほど。濁流は島の内陸部に突き進んだ」と振り返る。
 同じころ、内陸部に住む養殖業村上笑(えむ)さん(63)の自宅と周辺は、田中浜側から到達した津波に覆われていた。西を見ると浦の浜港側からも津波が迫っていた。自宅前の県道付近でぶつかり合った。ごう音とともに大きな波しぶきが上がった。
 小高い丘で浸水しなかった村上さんの自宅周辺は、合流した二つの津波の間に浮かぶ孤島のようになった。

<再び>
 「真っ黒で渦を巻く激流に四方を囲まれ、逃げ場がなくなった。まるで地獄にいるようだった」
 駄目かもしれない。村上さんが諦めかけた時、急に波が引き始め陸地が現れた。すぐに家族を連れ、自宅を飛び出した。高台にたどり着くと、次の津波が押し寄せ、自宅周辺がまた津波に囲まれているのが見えた。
 村上さんは「間一髪だった。波が引いたわずかな時間、高台に逃げる自分たちとは逆に、自宅に降りた人がいた。再び到来した津波に流された島民もいた」と話す。
 大島を三つに分断した大津波の伝説でも、現在の浦の浜港と田中浜の間で津波が合流したとされる。

<記憶>
 伝説でもう一つの合流地点となっているのが浅根漁港と小田ノ浜との間だ。震災では、この区間でも二つの津波が猛烈な勢いで内陸部に向かった。合流するまで数百メートルに迫り、「島は三つに分断される」寸前だった。
 伝説は室町時代の大津波を基にしているともいわれるが、歴史資料に記録はない。史上最悪の津波災害とされる明治三陸大津波でも、島は三つに分断されなかったことが確認されている。
 元教諭の菊田武範さん(73)は浦の浜港近くの自宅から避難する途中、明治三陸大津波でも被害がなかった場所の家屋が、濁流にのみ込まれる光景を見た。何とか逃げ着いた高台で、以前に聞いた大津波の伝説がよみがえった。
 「明治三陸大津波を上回る伝説の大津波が本当に来たと思い、恐ろしくなった。信じられない現実が目の前にあり、立ち尽くすだけだった」=2011年5月28日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月15日水曜日


先頭に戻る