宮城のニュース

<回顧3.11証言>猛火に住民一丸 立ち向かう

焼け焦げた亀山リフト。火の手は亀山の山頂まで達した=2011年5月20日、宮城県気仙沼市の大島

 島を三つに分断するという大津波の伝説が、今によみがえったかに見える宮城県気仙沼市の大島。起伏に富む地形が幸いし、島民はすぐ近くにある山に避難した。島民約3200人のうち死者は23人、行方不明者は8人。津波の規模の割には助かった住民が多かった。だが翌3月12日、津波から島民の命を守った山から、今度は火の手が迫った。

◎気仙沼・大島の津波(下)

 「島北部の山が燃えている」
 2011年3月12日午後11時すぎ、気仙沼消防署大島出張所に第一報が入った。気仙沼との航路は寸断され、応援隊は入れない。島の隊員は7人。消防士長の村上喜久男さん(29)らが現場に向かった。
 村上さんは「5メートル先も見えないほど煙に包まれた山中を進み、ようやく出火現場付近に着いた。下草や樹木の幹が燃えていた。あまりに範囲が広すぎて手が付けられなかった」と振り返る。
 気仙沼消防署によると、気仙沼市朝日町の重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火。気仙沼湾との境にある大島瀬戸にがれきが流れ着き、岸辺の木々に燃え移ったという。
 火は島北部の約120ヘクタールを焼いた後、亀山(235メートル)の北麓を駆け上がり、山頂に達した。亀山の南麓には島唯一の小中学校などが集まる中心集落がある。火はそのすぐ近くまで迫ったが、激しい煙でヘリコプターも近づけなかった。
 津波の被害を免れた四つの貯水槽の水はすぐに底を突いた。水道は断水。コンクリートミキサー車2台で何度も海水を貯水槽に運び、放水しても、広がる火の手に追いつかなかった。
 「全てが火に覆われて焼き尽くされ、島の歴史が終わると覚悟した」。中心集落の漁業男性(60)は当時の心境を語る。
 島民は14日、亀山と中心集落の間を通る幹線道路で、延焼を防ぐための防火帯づくりに取り掛かった。燃えやすいがれきを一掃し、火の手を食い止めようとした。
 500人が幹線道路に集まった。着の身着のまま逃げた人も多く、素手で危険ながれきを片付けたり、数少ない重機を使って車を道路脇に寄せたりした。
 旅館経営の小松正三郎さん(61)は「島民が亡くなったり、家が流されたり、つらいことばかりだったが、島民がこんなに団結したことはなかった」と話す。
 幸いにも、火は防火帯まで達することなく、3月17日午前11時3分に鎮火。火災による家屋の焼損、人的被害はなかった。(狭間優作)=2011年5月28日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月15日水曜日


先頭に戻る