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<回顧3.11証言>動けぬ患者 迫り来る水

多数の入院患者と看護師が津波にのみ込まれた公立志津川病院。4階まで波が押し寄せた=2011年5月19日
公立志津川病院の側面図

 海からの距離わずか400メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の公立志津川病院。東日本大震災で入院患者107人のうち72人が死亡・行方不明となり、院内では看護師と看護助手計3人も波にのまれた。病院は東棟(4階)と西棟(5階)の2棟。津波は4階まで達した。入院患者の多くが自力歩行困難な65歳以上の高齢者だった。(吉田尚史)

◎75人死亡・不明、公立志津川病院(上)

<誘導>
 午後2時46分。強烈な横揺れに体を支えきれず、廊下の手すりをつかんだ。
 東棟4階の看護師千葉志帆さん(34)は揺れを感じ、入院患者の安否確認に向かうため、ナースステーションを出たところだった。
 「患者の上に物が落ちてこないよう中央にベッドを集めて。大部屋には1人ずついるように」。上司の指示で、看護師が手分けして病室を回る。
 「ベッドを動かしますね。大丈夫ですよ」。千葉さんは402号室の患者に声を掛けた。
 同じ東棟の2階では、看護部長星愛子さん(55)が看護部長室向かいの総務課に駆け込んだ。「対策本部は5階でいいんですね」。入院患者一覧と看護師のデータが入ったパソコンをバッグに詰め、最上階の西棟5階の会議室へ。黒板に患者の安否情報を書き込む準備を始めた。
 「高さ6メートル」という大津波警報にざわつくフロア。近隣住民が次々に建物に駆け込んでくる。「すみません、患者さんを先に上げます」。男性スタッフは叫び、入院患者を上階へと誘導した。

<混雑>
 入院患者がいるのは東西両病棟の3、4階で、両棟は5階を除く各階が渡り廊下で結ばれていた。「津波想定時には3階以上に避難」という院内ルールだったが、医療スタッフそれぞれの判断で上階への搬送を開始した。
 入院患者のほとんどが65歳以上の高齢者で、寝たきり状態。数人で患者をシーツに載せたり、車いすに乗せたり。患者を運び上げるのには労力と時間を要した。
 「周りにいる患者さんをそれぞれが運んだ。いつ津波が来るのか分からない。優先順位を考える余裕はなかった」。内科医菅野武さん(31)が振り返る。
 「早く上がってください、早く」。東棟1階では、職員が次々に駆け込んでくる住民への対応に追われた。エレベーターは停電で動かない。
 事務職員後藤正博さん(48)が脳裏に焼き付く記憶をたどる。「高齢者は階段を上がるにも足がついていかない。懸命に尻を押し、引きずり上げた」。逃げ込んだ住民ら約120人の誘導と入院患者の搬送が重なり、階段は混雑を極めた。

<濁流>
 防潮堤を超えた波が迫ったのは午後3時半ごろ。1、2階の避難完了を確認した総務課長最知明広さん(51)は、窓の外に土煙を見て駆け上がった。ごった返す西棟3階エレベーターホールに走り込み、階段の最後尾からせき立てた。「上がれ! 上がれ!」
 東棟4階で女性の叫び声が響いた。「家が流されてる、もう駄目」。その絶叫を聞いたのは、4階で病室を回っていた看護師千葉さんだ。千葉さんが外を見ると、濁流は目の前のショッピングセンター手前まで来ていた。
 千葉さんは叫び声がした405号室に飛び込み、とっさにそばにあった車いすに患者を乗せ、無我夢中で5階へ急いだ。「早く逃げなきゃ」
 避難者をせき立て続けた後藤さんも、生死の瀬戸際に立っていた。せり上がる波は、屋上へと向かう東棟4階の階段までに達した。逃げても逃げても、水が追ってくる。屋上に出ると、4階から駆け上がってきた看護師の足元がぬれていた。
 病院スタッフの懸命の避難誘導にもかかわらず、病室には多くの患者が残されていた。=2011年6月7日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月16日木曜日


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