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<回顧3.11証言>指令途絶 それでも前へ

大震災翌朝の宮城県南三陸町。がれきや水たまりで道路の位置すら分からない市街地へ、入谷地区の消防団員は向かった=2011年3月12日午前5時50分

 大津波は町役場はおろか、警察署、消防署をものみ込んだ。災害対策の指令機能を完全に喪失した宮城県南三陸町。大地震の翌日、いち早く生存者の救出に向かったのは、町山間部の入谷地区の消防団だった。余震と津波の恐怖と闘いながら、公立志津川病院で孤立した約120人を避難させた。(門田一徳)

◎宮城・南三陸町の入谷消防団奮闘(上)

<内心>
 2011年3月12日午前7時、入谷地区の集会所に70人の男が集結した。厚手のジャンパーに安全靴、手にはとび口とスコップ。辺りはうっすらと雪が積もり、吐く息は白かった。
 「生存者の捜索と避難経路の確保に当たる。われわれ入谷の人間が、やらなければならない」
 南三陸消防団長で入谷に住む菅原一朗さん(66)は団員に気合を入れたが、内心は逆だった。
 前日の大地震直後、菅原さんは町防災対策庁舎に駆け付けた。2階の災害対策本部には、佐藤仁町長ら町幹部が15人ほど集まっていた。
 「団長さん、車を流されっかもしれないから、消防署まで持って行ったほうがいい」。消防職員に言われ、山手の消防署に向かった数分後、津波が街を襲った。車を捨て、道路脇の山を駆け上がり助かった。
 「町長もみんなも駄目だと思った。南三陸町は指令機能を全部失ったと思った」

<崩落>
 12日午前7時半、団員は国道398号の津波の最終到達点に移動した。がれきは海岸から3キロ近くの内陸まで押し寄せ、国道が走る谷間を埋めていた。
 南三陸町の市街地につながる幹線は国道398号と国道45号の2路線。45号は南北とも橋が崩落し、398号だけが「生命線」になった。
 がれきは高さ3メートル、市街地に向けて100メートルほど続いた。地元の建設会社「沼正工務店」は午前5時から重機でがれきを取り除き、人が通れるほどの道ができていた。
 「(志津川)病院にたくさんの人がいる。一緒に行って通路を造ってほしい」。消防団が工務店に頼み、重機で電線や電柱を払いのけながら国道398号を下り始めた。

<困惑>
 街並みを見渡せる気仙沼線の陸橋に差し掛かったとき、消防団員の佐藤伸さん(32)は奇妙な感覚に襲われた。「街がなくなっていた。自分がどこにいるのか分からなくなった」
 団員は陸橋で志津川病院、志津川中、志津川高の3手に分かれ、孤立した避難者の救助に向かった。佐藤さんら6人は志津川病院を目指した。
 骨組みだけになった町防災庁舎を過ぎたときだった。
 「上がれーっ」「戻れーっ」。高い場所にいる警戒役の消防団員が、叫んでいる。
 佐藤さんがそばを流れる八幡川に目を向けると、川底が見えるほど水が引いていた。

          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月21日火曜日


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