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<回顧3.11証言>がれき 恐怖押しのけ

震災翌日の午前中に国道398号のがれきが寄せられ、避難や支援物資の運搬ができるようになった=2011年3月12日午前11時30分ごろ、宮城県南三陸町志津川

 大津波は町役場はおろか、警察署、消防署をものみ込んだ。災害対策の指令機能を完全に喪失した宮城県南三陸町。大地震の翌日、いち早く生存者の救出に向かったのは、町山間部の入谷地区の消防団だった。余震と津波の恐怖と闘いながら、公立志津川病院で孤立した約120人を避難させた。(門田一徳)

◎宮城・南三陸町の入谷消防団奮闘(下)

 宮城県南三陸町で、津波被害を免れた入谷地区の消防団員70人は2011年3月12日朝、生存者の確認と救助に向かった。ラジオは「公立志津川病院に200人が孤立」と伝えていた。

<迷い>
 志津川病院を目指した消防団の6人は、「津波が来る」との仲間の避難警告に動揺した。
 町指定の避難場所でもある5階建ての志津川病院までは海側に200メートルの距離。後ろの気仙沼線の陸橋までは500メートル。
 「進むか。戻るか」
 消防団の佐藤伸さん(32)の弟の妻は、志津川病院の看護師。地震以降、連絡は取れていない。どうしても無事を確認したかった。「屋上に人の姿も見えた。怖かったが、助けに行きたいと思った」
 6人の中で最年長の阿部博之さん(53)の決断は速かった。「ただでは帰れない。行くぞ」。阿部さんの号令とともに、6人は病院へ急いだ。がれきや陥没を避けてたどり着いた裏手の階段には、大きな水たまりができていた。

<悲鳴>
 病院の建物に遮られ海は全く見えない。「早く、早く」。屋上から悲鳴にも似た声が響く。
 津波は八幡川の水位を変える程度で、再び陸を浸すことはなかった。6人はそばにある柱やはりを階段のたもとに渡すと、屋上まで一気に階段を上がった。午前10時ごろだった。
 「230人が(孤立して)います」。5階会議室で病院職員から説明を受けた。佐藤さんの弟の妻は涙を浮かべて6人を迎えた。
 胃がん治療で入院していた松野三枝子さん(57)=南三陸町入谷=は、旧知の阿部さんに駆け寄った。「ひろ、歩いてきたの?」「歩いてきた」。
 松野さんは会議室で一夜を明かした。看護師が貸してくれたストッキングをはき、手ぬぐい2枚と病室のカーテンを体に巻いて寒さに耐えた。夜は全員で柿の種1粒と氷1片ずつを分け合った。
 「まさか(自衛隊より早く)陸から助けに来てくれるとは思わなかった。これで家に帰れると思った」と、松野さんは振り返った。

<誘導>
 6人はすぐ、避難経路の確保に動いた。1人が屋上で潮位を監視し、5人は階段のがれきを片付け、陸橋までの安全な避難経路をつくった。
 正午すぎ、ようやく八幡川の水位が落ち着いた。「今しかない」。団員の誘導に従い、避難者ら120人が続いた。病院を後にして間もなく、自衛隊のヘリが屋上に着陸し、患者搬送を始めた。
 誘導の途中、阿部さんはがれきの中で男の子の遺体を見つけた。靴のかかとにはフェルトペンで名前が記されていた。「連れて行ってあげたかったが、どうすることもできなかった」。小さな体に毛布を掛け、手を合わせた。
 志津川病院の120人はじめ、多くの人たちを避難させた入谷地区の消防団。山間部という土地柄、毎年の津波訓練は消火作業やけが人の救護で、避難誘導は素人同然だった。
 阿部さんは言う。「団員の安全を考えると、無謀だったかもしれない。だが、あの日、孤立した人たちを助けに行けるのは、俺たちしかいなかった」=2011年6月26日河北新報

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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月21日火曜日


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