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<回顧3.11証言>薬不足4日目、発作次々

津波に襲われた光ケ丘保養園。2011年8月中の終了を予定し、復旧工事が進んでいる=2011年6月下旬、宮城県気仙沼市浪板

 気仙沼湾を望む宮城県気仙沼市浪板地区に、統合失調症の患者ら約250人が入院する精神科病院「光ケ丘保養園」がある。東日本大震災による津波は病棟の2階まで押し寄せ、患者全員が一時、屋上に避難した。4日後には、湾周辺で発生した火災により、約5キロ離れた小学校への避難を余儀なくされた。移動や病院外での生活は困難を極め、患者は医薬品の不足で次々と発作を起こした。窮地に追い込まれた医療スタッフと患者は、どう行動したのか。(菊池春子)

◎気仙沼の精神科病院(上)

<避難>
 午前からの外来診療が終わり、ひと息ついたとき、激しい揺れに襲われた。午後2時46分。1階の薬局にいた看護課副主任水戸幸弘さん(46)は、急いで病院周辺の状況を確認し、担当する2階の閉鎖病棟へと向かった。入院している大半は重い統合失調症やてんかんの患者だが、思いの外、落ち着いていた。
 患者らを指定避難場所となっている病院の外のグラウンドに連れていくか、それとも、津波に備え、屋上に避難させるべきか。水戸さんが他のスタッフと話し合っていたその時―。
 「津波だ、津波が来る」。堤防付近まで様子を見に行った職員が、叫びながら戻ってきた。
 考える余裕はない。黒くて泥臭い水が、既に階段の下に迫っていた。

<上へ>
 「早く逃げっぺし」。看護師らが呼び掛ける。状況を理解しきれず、ベッドに入ったまま「やんだ、やんだ」と嫌がる患者もいた。看護師らはシーツを剥がして患者をそのまま包むようにして担ぎ、階段を上った。「死なせるわけにはいかない、との一心だった」。看護師中村好江さん(30)は振り返る。
 閉鎖病棟、開放病棟合わせて249人の入院患者全員と職員約50人の屋上への避難は約10分間で終了した。眼下の駐車場に止めてあった職員の車が、まるで映画のセットのように流されていく。患者らは寒さの中で、ひたすら身を寄せ合った。3階建ての病棟のうち、津波は2階の床上1メートルほどまで達していた。

<痛手>
 午後5時すぎ。浸水を免れた3階に全員で移動し、ベッド1台を2人で使って夜を明かした。
 長い闘いが始まった。
 停電、断水、食料の枯渇…。翌日から裏山の沢水を汲み、がれきを燃やした鍋で煮沸し、院内に残っていた食料を分け合った。
 最大の痛手は医薬品の不足だった。1階の薬局に保存していた在庫は引き波で全て流され、病棟に1週間分ほどを残すのみ。新たな入荷は見込めない。処方量を減らし、持たせるしかない。
 発生4日目、15日ごろだった。薬が減った影響で、患者が次々と発作を起こし始める。「あっちでもこっちでも、患者さんが泡を吹いて倒れている状態。息つく間もなかった」。新階敏恭医師(45)は患者の元を駆け回り、症状を抑えるための注射を打った。=2011年7月9日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月23日木曜日


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