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<回顧3.11証言>迫る火の手、緊急避難

危機的な状況から脱し患者が入院生活を送る病棟=2011年7月7日、宮城県気仙沼市浪板の光ケ丘保養園

 気仙沼湾を望む宮城県気仙沼市浪板地区に、統合失調症の患者ら約250人が入院する精神科病院「光ケ丘保養園」がある。東日本大震災による津波は病棟の2階まで押し寄せ、患者全員が一時、屋上に避難した。4日後には、湾周辺で発生した火災により、約5キロ離れた小学校への避難を余儀なくされた。移動や病院外での生活は困難を極め、患者は医薬品の不足で次々と発作を起こした。窮地に追い込まれた医療スタッフと患者は、どう行動したのか。(菊池春子)

◎気仙沼の精神科病院(下)

 医薬品の不足で患者が次々と発作を起こし始めていた宮城県気仙沼市浪板の精神科病院「光ケ丘保養園」に、追い打ちをかけるように火の手が迫った。
 気仙沼湾周辺では、2011年3月11日夜から火災が発生。重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火したことが一因とみられている。近くの鹿折地区は火の海となり、浪板地区周辺では林野火災が起こった。
 延焼は続き、市の災害対策本部に15日午後、「光ケ丘保養園の近くに煙が見える」との情報が入った。患者の緊急避難が決まる。
 午後3時すぎ、約5キロ離れた唐桑小体育館への移動が始まった。応援に来た東京消防庁のマイクロバス10台で、15人ずつを移送。午後10時近くまでかかった。
 病院以上に冷え込む体育館。慣れない環境に混乱し、一晩中、医師の名を叫び続ける患者もいた。隣接する校舎には、地元住民らも身を寄せている。同行した森きえ子看護長(58)は「まったく眠れなかった。あまりに厳しい状況だった」。
 「避難所生活」は一晩で限界だった。火災は鎮圧状態となり、翌16日午前、患者はバスで病院に戻った。

 病院に支援物資は少しずつ届き始めていたが、試練はなお続く。てんかんの発作に加え、体育館での寒さが災いし、肺炎を起こす患者が続出した。20日すぎまでに、肺炎で7人、低体温症で2人の患者が死亡した。
 医療スタッフも疲弊していた。精神科病棟の医師数は、国の基準で一般病棟よりも少なく定められている上、光ケ丘保養園の常勤医5人のうち、2人は80歳前後の高齢。ほか2人も自宅が被災するなどし、昼夜を問わず患者のケアに当たれるのは新階敏恭医師(45)だけになっていた。
 新階医師を支えたのは、経験とクリスチャンとしての信仰だった。光ケ丘保養園への赴任前は、医師不足が深刻な岩手県西和賀町の沢内病院の院長を務め、国際協力機構(JICA)の事業で、ネパールの医療支援に赴いたこともあった。「すべての経験を、今に生かさなければならない」。食事も睡眠もそこそこに、治療に奔走した。
 被災地から離れた病院への患者の移送も検討したが、事務職員の努力で25日ごろまでに発電機の調達、井戸水の活用などでライフラインを応急復旧した。全国からの医療チームの支援も始まり、最悪の状態を脱した。
 新階医師は振り返る。「精神科病棟の患者は、この病院で暮らすしかない人たちも少なくない。見ず知らずの場所に移し、一生を終えさせていいのか、という思いもあった」

 震災からまもなく4カ月。震災のショックからか、部屋からほとんど出ず、食欲も落ちてしまった患者もいる。
 外来診療は3月末に一部再開し、定期的に通院していた700人ほどの患者の半数近くが再び来院。震災後、精神的ストレスでうつ状態になり、来院する新患も増えた。
 激闘の日々を超え、地域の精神科医療の拠点は残った。その意味が今、重みを増している。=2011年7月9日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月23日木曜日


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