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<回顧3.11証言>酷寒の避難所 犠牲拡大

津波にのまれ、泥だらけになったお年寄り用の歩行器=2011年7月1日、宮城県気仙沼市のリバーサイド春圃

 目の前に気仙沼湾を望む宮城県気仙沼市錦町の介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」。東日本大震災の大津波は建物の2階まで押し寄せ、車いすの高齢者をのみ込んだ。生き残った人も寒さで次々に命を落とし、犠牲者は最終的に59人に上る。避難訓練の想定を上回る津波に、なすすべもなかった職員たち。「私たちに何ができて、何ができなかったのか」と自問自答する。(丹野綾子)

◎59人死亡、気仙沼の老健(下)

 延焼を免れた気仙沼市の介護老人保健施設「リバーサイド春圃」は2011年3月12日朝、助かった高齢者86人を近くの鹿折中体育館に避難させる。施設長の猪苗代盛光さん(63)をはじめ職員たちは3人がかりで車いすを抱え、膝上まである泥の中を進んだ。たどり着けば、生命の危険は遠のくはずだった避難所。しかし、そこには別の悲劇が待っていた。

 やっとの思いで避難した体育館に寝具はなく、津波でぬれた服を着替えさせることもできなかった。底冷えが高齢者の体力を奪った。
 体調の悪化したお年寄り以外は、車いすに座らせたままにせざるを得ない。職員2人が脇で倒れないように支えた。
 「バターンと大きな音がするたび、お年寄りが倒れ、亡くなったことが分かった」。猪苗代さんが、その光景を思い起こして唇をかむ。
 その後も1日に1人、2人と亡くなる人は相次ぎ、市立病院に救急搬送されてから死亡した人も含めると、12人が津波で助かった命を失った。
 「避難所は介護が必要な高齢者を置いておける場所ではない」。猪苗代さんたちは、できるだけ高齢者を家族に引き取ってもらった。身寄りのないお年寄りら32人は、市内や隣の一関市の高齢者福祉施設に受け入れてもらった。
 看護師の千田淑子さん(61)は「やっと温かい食事や布団のある場所に移せて、ほっとした」と目を潤ませて振り返る。
 避難所に向かう前、千田さんらは三つの部屋のベッドに寝かせた46人の遺体の顔を、タオルで丁寧にぬぐった。
 皆、口や鼻の中まで泥が入っている。目を開いたまま亡くなり、死後硬直で閉じられなくなった高齢者もいた。
 「助けられなくてごめんなさい」。謝りながら涙が止まらなかった。
 4月上旬、猪苗代さんは亡くなった高齢者の遺族の家を回り、震災時の状況を説明した。
 「老健施設は在宅復帰を目指す場所なのに、遺体で家に帰すことになり心苦しい」とわびた。
 津波で亡くなった84歳の女性の三女(56)は「遺体の顔は息苦しそうにゆがみ、かわいそうだった」と声を震わせる。
 施設の責任を問う気持ちはない。「自分たちを責めないでほしい。亡くなった母の分まで、他のお年寄りを大切にしてほしい」と気遣う。

 現在、リバーサイド春圃は市内の病院の2階を借り、13人の高齢者を預かっている。市内の施設が被災して在宅の高齢者が増えたこともあり、6月に訪問看護ステーションも開設した。
 リバーサイドの再建を目指す猪苗代さんは「震災時に何ができて何ができなかったか、職員と話し合いたい」と言う。
 痛感したのは、災害時の高齢者の避難環境が整っていなかったことだ。
 環境への適応能力がない高齢者は精神的なバランスを崩し、認知症やうつ病になりやすい。精神面でのかかわりも重要になる。
 「一日も早く高齢者が安心して暮らせる環境を整えたい」。それが亡くなった高齢者に報いることにもなると、猪苗代さんは考えている。
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月24日金曜日


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