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<回顧3.11証言>仙台駅閉鎖 2500人殺到

避難者で埋め尽くされた榴岡小の体育館=2011年3月12日午前、仙台市宮城野区

 2011年3月11日の東日本大震災の直後、JR仙台駅に近い榴岡小(仙台市宮城野区)には、想定の4倍を超える約2500人の避難者が押し寄せた。仙台駅を閉め出された駅利用者らが、避難場所を求め、殺到したためだ。指定避難所とはいえ、想像を超える数に現場は大混乱に陥った。(佐々木絵里香)

◎指定避難所、大混乱(上)

<満杯>
 「次から次へと人がやってきた」。久能和夫校長(58)と教員は、どんどん大きくなる校庭の人だかりに困惑した。
 学校には宮城野区と連絡を取るための防災行政無線が配備されていた。が、一向につながらない。久能校長は区の避難所開設要請を待たずに、午後3時半すぎには体育館の開放を決めた。
 体育館はすぐに満杯になった。1人分のスペースはひざを抱えて座れる程度。校舎東側の5教室も開放したが、それでも避難者を収容しきれなかった。
 原因は、徒歩で約10分の位置にある仙台駅の立ち入り禁止措置だった。「駅舎倒壊の危険がある」と、駅員らの指示で利用客らは地震直後に閉め出された。駅周辺に滞留する人の群れ。JRや宮城県警は避難先として、榴岡小をはじめ近隣の学校を告げた。「少しでも安全な屋内の場所に移動してもらうほかなかった」(JR東日本仙台支社)と説明する。

<困惑>
 仙台駅東口のビルの整体院で働く古関直美さん(40)=宮城県名取市=は、岩手県盛岡市から通う利用者らとともに榴岡小に避難した。「駅が使えない以上、行く場所がなかった」。ぎゅうぎゅう詰めの体育館には、宮城県外からの買い物客らも多かったという。
 学校側は状況がのみ込めなかった。災害時の想定収容人員は近隣住民ら600人。事前にJRと協議する場もなく、駅の立ち入り禁止措置は全くの想定外。「どうしてこんなに人が集まるのか」。戸惑いの中で対応に追われた。
 近隣のオフィスからも人が集まった。「災害時の避難場所を決めていなかった。自社ビルの安全が確認されるまで、榴岡小に一時社員が避難した」(ユアテック)

<奔走>
 あふれる避難者で、結果的に居場所を失った地域住民も少なくなかった。
 「知らない人がいっぱいいる」。榴岡地区町内会連合会の及川勇副会長(60)は驚いた。既に校庭は人で埋め尽くされていた。校内への避難を諦め、近くの公園にテントを張ったり、駐車場で車に寝泊まりしたりした住民も数多くいたという。
 圧倒的な人の数に、食料も間に合わなかった。学校に備蓄された食料は、想定600人の2回分で1200食。避難者全員に行き渡らないと判断した久能校長は、夜の食事の支給を取りやめた。
 教員は食料を求め、原町コミュニティーセンターと宮城野消防署原町出張所に走った。備蓄分と合わせ、やっと3080食を確保できたのは、日付が変わるころだった。=2011年7月26日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年02月26日日曜日


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