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<回顧3.11証言>無条件に転院受け入れ

里見院長(右)を中心に、被災地支援の活動方針を確認した災害対策本部のミーティング=2011年3月14日、仙台市青葉区の東北大病院

 東日本大震災では津波で沿岸部の多数の医療機関が被災し、被害を免れた病院に患者が殺到した。東北大病院(仙台市青葉区)は震災後、医師らを沿岸部に派遣するとともに、被災地の病院が収容しきれなかった患者300人以上の入院を受け入れ、パンク寸前だった医療を支えた。災害下、大学病院に求められる役割とは何か―。突き付けられた命題に、後方支援の現場はどんな答えを出したのか。(菊池春子)

◎後方支援・東北大病院(上)

<決意>
 「沿岸の病院は壊滅状態」「残された石巻赤十字病院には患者が殺到。修羅場になっている」「水や食料、医療スタッフも足りない」
 震災翌日の2011年3月12日。東北大病院(仙台市青葉区)の災害対策本部には災害派遣医療チーム(DMAT)の隊員や現地の医師らを通じ、沿岸部の被災情報が刻々と入り始めていた。
 免震構造の東北大病院の病棟に大きな被害はなく、入院患者や医療スタッフも無事だった。救急搬送される患者も想定よりは少ない。電気や水も非常用に切り替わり、一定程度の診療機能は維持できていた。医師の数は大学院生なども含めると一般の病院と比較して圧倒的に多い。
 自分たちが今、すべきことは何か。「地域医療の最後のとりでとして、被災地の病院を支えなければならない。最前線の病院を絶対に疲弊させてはならない」。里見進院長(63)は態勢づくりを急いだ。宮城県の防災計画などで災害時の「大学病院」の役割が規定されているわけではなく、独自の判断が必要だった。

<切迫>
 東北大の他学部の協力も得てマイクロバス2台を確保。15日朝、石巻赤十字病院や気仙沼市立病院など診療を続ける基幹病院に向けて、医師らの派遣を開始した。
 現地の混乱は想定以上だった。ほとんどの医療機関が診療不能となった石巻地域は、特にひどかった。精神疾患の患者が、かかりつけの病院の被災で症状を悪化させ、精神科のない石巻赤十字病院に駆け込む事態も続いていた。派遣された東北大病院の精神科医らは連日、患者を診療した。松本和紀医師(44)は「とにかく急場をしのぐための支援が必要だった」と振り返る。
 被災地の病院ではもう一つ、深刻な事態が進行していた。寒さや避難生活の衛生環境の問題から肺炎が多発。次々に患者が搬送され、402床の石巻赤十字病院は臨時のベッドを使用して450床を超える非常事態となっていた。「このままでは患者を受け入れきれなくなる」。現場は切迫した。

<使命>
 東北大病院のスタッフも危機感は同じだった。里見院長は一つの決断を下す。16日から17日にかけて沿岸部の病院に伝えた。「患者の転院は無条件で受け入れる。遠慮なく依頼してほしい」。現地への応援医師らの派遣から、患者の受け入れに力点を移した。
 17日から毎日夕方、翌日搬送予定の患者数十人のリストがファクスで各病院から届けられた。全ての患者を診療科の枠を超えて一括して受け入れ、下瀬川徹副院長(57)が主治医などを選定。早期に退院できる患者には協力を求め、看護部門の担当者が連日、症状や性別に応じて翌日の病床を調整した。
 「現地に駆け付け、救護活動に当たりたい」と考えるスタッフも少なくなかった。門間典子看護部副部長(55)=現看護部長=は看護師らに呼び掛けた。
 「被災地に行くだけが看護ではない。来た患者さんをしっかりと受け止め、患者さんや最前線の病院に安心感を与えるのが、今の私たちの使命ではないか」=2011年8月22日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月01日水曜日


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