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<回顧3.11証言>透析患者 北海道へ移送

東日本大震災翌日、沿岸部の病院からヘリコプターで搬送される患者=2011年3月12日、仙台市青葉区の東北大病院(東北大病院提供)

 東日本大震災では津波で沿岸部の多数の医療機関が被災し、被害を免れた病院に患者が殺到した。東北大病院(仙台市青葉区)は震災後、医師らを沿岸部に派遣するとともに、被災地の病院が収容しきれなかった患者300人以上の入院を受け入れ、パンク寸前だった医療を支えた。災害下、大学病院に求められる役割とは何か―。突き付けられた命題に、後方支援の現場はどんな答えを出したのか。(菊池春子)

◎後方支援・東北大病院(下)

 東日本大震災の後、沿岸部の患者を全面的に受け入れ始めた東北大病院には連日、ヘリコプターや救急車で多数の患者が運ばれてきた。病院は懸命な診療、看護に当たる一方、大勢の人工透析患者を北海道に移送する前例のない「空輸作戦」の調整や眼科、皮膚科の専門医による被災地医療を担った。

 「温かいタオルで体を拭くと患者さんが涙を流し、看護師も思わず泣いてしまうこともあった」
 門間典子看護部長(55)が振り返る。体はすっかり冷え、所々に泥がついたままの患者たち。大半は70代から80代の高齢者だった。認知症患者のため、医学部保健学科の学生らもボランティアで見守りに当たった。
 石巻赤十字病院救命救急センター(宮城県石巻市)の小林道生医師(34)は「石巻を離れたくないと言う患者も多く、それぞれに理解を求めた。(東北大病院の)支援がなければ病院が満杯になり、他の患者を受け入れられなくなった。医療現場としては本当に支えられた」と語る。
 受け入れがピークに達したのは震災発生8日後の2011年3月19日。人工透析を受けられなくなった気仙沼市立病院の患者78人を北海道の病院に移送するため、22、23日の出発まで一時的に入院させ、同時に移送手段の調整を急いだ。患者の状態を確認して受け入れ先の病院に伝え、航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)から送り出した。
 担当した血液浄化療法部副部長の宮崎真理子医師(51)は「裏方を務めることで最前線の病院の機能、ひいては被災地全体の命を守りたいという一心だった」と話す。
 眼科と耳鼻科、皮膚科の医師らは合同チームを結成し、4月1日から週1回、南三陸町と女川町を訪問して診療。「コンタクトレンズが津波で流された」「ストレスでアトピー性皮膚炎が悪化した」と訴える被災者に対応した。
 全国から来る救護チームは内科や外科が中心だった。眼科の中沢徹医師(41)は「マンパワーのある大学病院として、専門医による診療で、行き届きにくいニーズに応えることを目指した」と話す。延べ千人以上の患者が訪れ、診療は5月末まで継続した。
 震災から5カ月余り。被災地の医療機関も少しずつ診療を再開させ、東北大病院も通常体制に戻ったが、沿岸部から搬送された患者のうち重症者約30人の入院は7月以降も続いた。精神科チームは、仮設住宅などの巡回や自治体職員の心のケアを継続する。
 以前から医師不足が深刻だった三陸沿岸部の医療を、どう再構築していくのかという課題も立ちはだかる。里見進院長は「遠隔医療システムの導入や福祉との連携など、被災地の街づくりを見据え、積極的に提言していかなければならない」と強調している。=2011年8月22日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月01日水曜日


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