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<回顧3.11証言>海抜16m濁流 病院襲う

女川町立病院の駐車場で見た震災当日の様子を振り返る鈴木康仁さん=2011年8月3日、宮城県女川町鷲神浜

 東日本大震災で港に面した中心市街地が壊滅した宮城県女川町では、津波による浸水が海抜約20メートルに達した。港周辺に立つ商業施設や公共施設はほとんど水没。津波は鉄筋の建物をなぎ倒すほどの威力で、多くの町民が逃げた高台の町立病院にも押し寄せた。町役場も最上階まで浸水し、町の防災無線は市街地が津波にのみ込まれている最中に途絶えた。(肘井大祐)

◎宮城・女川町中心部壊滅(上)

<噴出>
 2011年3月11日。最初の揺れが収まってから約30分後、宮城県女川町鷲神浜の女川町立病院駐車場で見た光景に、経営する港近くの中華料理店から避難してきた鈴木康仁さん(39)=女川町女川浜=は目を疑った。
 はるか遠くの岬の先端にあった高さ6メートルの防潮堤を白波がのみ込み、大きなうねりとなって街に迫ってきた。
 病院は女川港を見下ろす海抜16メートルの高台に立つ。「まさか、ここまで津波は来ないだろう」。鈴木さんは駐車場にとどまり、港の周りの様子を見ていた。
 商業ビルなどが立ち並ぶ港の一帯では、至る所で噴水のように水が噴き出していた。一気に水かさが増し、何棟かのビルで、屋上に避難する人が見えた。

<水没>
 「ここではだめだ」。鈴木さんは駐車場を後に、病院西側のさらに高い場所にある熊野神社を目指し、階段を駆け上がった。パキパキパキ。階段を上る途中、不気味な音が聞こえた。津波が濁流となり、建物を壊す音だった。
 踊り場で、後ろを振り返った。3、4棟を除いて、港近くにあったビルは水没していた。目をこらすと、4階建ての商工会館が見えた。屋上に人影があった。次の瞬間、会館の屋上も水中に消えたように見えた。
 数分前までいた病院駐車場にも、津波が迫っていた。避難した人たちが乗ってきた車が次々と濁流に浮き、流された。
 「高台に逃げろ」。女性の声で避難を呼び掛けていた防災無線が急に男性に代わり、叫び声が聞こえた。その声を最後に、無線は途絶えた。
 「皆、死んだ」。鈴木さんはその場にぼうぜんと立ちつくした。町立病院に逃げた人たちの安否が気掛かりだった。

<必死>
 そのころ、町立病院。職員が患者や逃げてきた町民を2階より上に誘導していた。駐車場に津波が迫っていた時、1階フロアにはまだ、約20人がいた。 当時、院内で働いていた阿部ゆかりさん(39)=同町浦宿=もその一人。「病院にいれば、安全だろう」。本震後約20分は、病院の内外を行ったり来たりしていた。駐車場から、車や民家などが濁流に押し流されているのが見えた。震えが止まらなくなった。
 院内に戻ると、男性の声が聞こえた。「津波が来たぞ」。阿部さんは階段に向かって走った。階段の幅は約1.3メートル。上り口に人が集中し、立ち往生していた。
 階段の約2メートル手前で、駐車場にあった車が濁流とともに玄関のガラスを突き破って入ってきた。数秒であごの下まで水に漬かり、体が浮いた。高さ2.5メートルの天井がすぐ真上に見えた。
 なすすべなく流された。すぐそばで浮いていた自動販売機に必死にもがいて、つかまった。販売機にはほかに4人がつかまった。
 やがて、ゆっくりと水が引いた。10分ほどたつと、床に足が付いた。「助かったんだ」。全身の力が抜けた。
 女川町や町立病院によると、町内の津波浸水の最高位は海抜20.3メートル。町立病院1階の浸水は高さ約2メートルに達した。3月11日、町立病院は職員や入院患者、避難者ら653人を収容した。後日、敷地内で4人の遺体が見つかった。=2011年8月26日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月02日木曜日


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