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<回顧3.11証言>乏しい備蓄 避難者困窮

2011年3月13日午後、救助された宮城県職員がヘリコプターの中から撮影した県気仙沼合同庁舎。津波で孤立し、住民らは空腹と寒さに耐えた=宮城県気仙沼市朝日町

 気仙沼湾に面した宮城県気仙沼市朝日町に、県と国の合同庁舎が並んで立つ。2011年3月11日の地震直後、5階建ての両施設には職員や周辺の住民ら計380人が避難した。ともに市指定の避難場所ではなく、県も国も大人数の受け入れは想定外。食料や物資はほとんど備蓄されていなかった。「公共施設なら安心できる」。そう思って逃げ込んだ住民らは、寒さと空腹に耐えなければならなかった。(田柳暁)

◎380人孤立、気仙沼の2合庁(上)

<確信>
 「普通の揺れじゃない。すぐに津波が来ると確信した」
 元気仙沼本吉広域消防本部消防長の若杉市郎さん(70)は2011年3月11日午後2時46分、宮城県気仙沼合同庁舎に近い気仙沼市川口町の自宅にいた。
 周辺は標高1メートル未満の埋め立て地で、住宅や水産加工場が立ち並ぶ。「高い建物は合庁しかない」。近くの高齢者らにすぐ避難するよう呼び掛けながら、妻と着の身着のまま合庁に向かった。
 県合庁に駆け込んだ直後、真っ黒な津波が2階の天井裏まで押し寄せた。入居する三つの出先機関の職員約70人、周辺の住民や工場従業員ら約220人の計約290人が孤立した。
 駐車場にあった車は木の葉のように浮き、住宅は軒並み流され、送電線の鉄塔も倒れて水しぶきを上げた。

<決然>
 「もう自宅があるとは思わないでください」
 川口町自治会長の池原修さん(68)は庁舎内に座り込んだ人たちに呼び掛けた。声が震えた。
 近くに住む小山利幸さん(84)は50年住んだ自宅が流されるのを見て、言葉を失った。「どうすることもできない。情けなさすら感じた」
 夜、厳しい寒さ。ストーブはお年寄りを集めた部屋の1台しかなかった。数人で肩を寄せ合い、1枚の毛布にくるまった。体に新聞紙を巻き付ける人も。住民たちは庁舎にあった職員用の乾パンや飲料水でしのいだ。
 海上では流れ出た重油に引火し、海を真っ赤に染め上げた。時折ガスボンベが「ボン」と不気味な音を立てた。
 寒さと空腹と恐怖が襲う。「必ず救援が来る。きっと助かる」。県の若手職員は夜通し、避難者に声を掛け続けた。本庁舎との連絡も途絶えがちで、職員の疲労も濃い。県気仙沼地方振興事務所の木村雅春さん(47)は「避難者に不安な表情は見せられない。決然とするよう職員に諭した」と振り返る。

<脱出>
 隣接する国の合庁。やはり、気仙沼海事事務所など入居する4機関の職員約40人に加え、周辺住民ら約50人が取り残されていた。
 気仙沼海上保安署が5階に入っていたことが、幸いだった。海保の通信機器や一部の発電機が使えた。署長の高橋昇さん(56)は「電話は通じず、唯一外部との連絡ができたのが無線。避難者の状況を伝え、骨折した人の救助を要請することができた」と語る。
 波をかぶった避難者には海難救助者用の着替えを提供した。海保や海事事務所が職員向けに備蓄していた非常食を少しずつ分け合った。
 県合庁では12日午後から13日朝にかけて約200人が二手に分かれ、避難所に向けて徒歩で脱出した。「膝元まで水に漬かりながらがれきの中を歩き続けた。住み慣れた街なのに、ここがどこなのか分からない状態だった」と若杉さんは言う。
 高齢者らは庁舎に残って救助を待ち、国合庁にも高齢者や女性がとどまった。
 自衛隊や東京消防庁のヘリコプターが、二つの合庁から住民を救助したのは地震から2日後、13日だった。=2011年8月29日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。

【カラー写真】
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2017年03月03日金曜日


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