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<回顧3.11証言>住民避難 想定せず

気仙沼湾を臨んで並ぶ宮城県(右)と国の各気仙沼合同庁舎。どちらも2階まで水が入り、避難した住民たちは孤立した=宮城県気仙沼市朝日町

 気仙沼湾に面した宮城県気仙沼市朝日町に、県と国の合同庁舎が並んで立つ。2011年3月11日の地震直後、5階建ての両施設には職員や周辺の住民ら計380人が避難した。ともに市指定の避難場所ではなく、県も国も大人数の受け入れは想定外。食料や物資はほとんど備蓄されていなかった。「公共施設なら安心できる」。そう思って逃げ込んだ住民らは、寒さと空腹に耐えなければならなかった。(田柳暁)

◎380人孤立、気仙沼の2合庁(下)

 気仙沼湾沿いに立つ宮城県と国の合同庁舎(同県気仙沼市朝日町)。気仙沼市の指定避難場所ではなく、避難者向けの食料や毛布などの備蓄はほとんどなかった。県合庁は市指定の一時避難ビルになっているが、備蓄の義務はない。国合庁は一時避難ビルにも指定されていない。災害時、市町村の公共施設が近くになく、住民が避難する可能性がある県や国の施設はどう備えるべきなのか。
 一時避難ビルは、津波の際、近くに高台がない沿岸部の住民が緊急的に身を寄せる施設。気仙沼市が1982年に県内で初めて導入した。
 市は鉄筋コンクリートで3階建て以上といった要件を満たした施設の管理者に受け入れを要請。承諾を得られた県合庁やホテル、民間ビルなど計15カ所を一時避難ビルに指定していた。
 市は「あくまで一時的な避難。津波の危険がなくなった場合、速やかに学校などの指定避難場所に移動するよう求めている」と説明する。備蓄については「各自が持ち込むのが原則。一時避難用に間借りしているので、備蓄を強く要請できない」と言う。
 県合庁では職員用に乾パンや飲料水があったが、住民への提供は想定していなかった。庁舎5階の食堂にあったタマネギやコメを使っておかゆを作り、配るのがやっと。1階にあった非常用電源も津波に沈み、利用できなかった。
 国合庁は、各機関が職員向けに一定量を備蓄していた。気仙沼海上保安署では十数人いる署員の1週間分を保管。水を注ぐだけで食べられるアルファ米やひもを引くと加熱できる弁当もあり、住民が温かい食事を口にすることもできた。
 毛布や布団は両庁舎とも不足した。近くの水産会社や庁舎内の宿直室などから持ち寄ったり、職員用の防寒着を着たりして寒さをしのいだ。
 県合庁に近い川口町自治会は、津波の恐れがあるときは県合庁に身を寄せることを決め、避難訓練を繰り返してきた。2010年2月のチリ大地震津波のときも、一部の住民が避難した。
 自治会長の池原修さん(68)は「一時避難の場であったとしても、最低限の食料や水はあると思っていた。今回のように津波の規模が大きくて、数日間移動できないことも考えられる」と備蓄の必要性を訴える。
 国合庁1階にあるハローワーク気仙沼相談員で、国合庁で2晩を過ごした梅津由美さん(61)も「津波のときは身近で安全な高い場所に逃げるのが当然。管理が県だとか国だとかいわず、備蓄すべきではないか」と指摘する。
 宮城県地域防災計画では、食料などは市町村が備蓄することになっている。県や国は住民向けの備蓄を施設ごとにする考えはないという。
 一時避難ビルの在り方について気仙沼市は「ビルの高さや、波の強さに耐えられるかなどの検討が、今後必要になる。長期間とどまることも踏まえて課題を整理したい」と話している。=2011年8月29日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月03日金曜日


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