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<3.11明日への証言>悲しみこらえ弔う日々

復旧した名取市斎場で、震災直後の様子を語る針生さん=名取市小塚原

 震災から月日が流れた。あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日へつなげよう。

 海から約500メートルの場所にあった宮城県名取市斎場は、東日本大震災の津波の直撃を受けた。鉄筋2階建ての建物は残ったが、1階にあった炉4基は浸水し、流木や砂が押し寄せた。ブルドーザーなどでかき出して応急的に復旧し、2011年3月25日から犠牲者を火葬した。

◎震災6年(1)火葬炉手作業で復旧(宮城県名取市)

<1ヵ月半で450人>
 小さなひつぎの中に、子どもが好きだったおもちゃが入っていた。持参したのは両親ら。ひつぎにすがりついて離れない。誰も言葉を発しない。遺族が納得するまで、そばで見守る。
 「お願いします」。振り絞るような声を受け、火葬に当たる。弔い方はいつもと違う。ひつぎと簡易式バーナー、燃料タンクを積んだ重さ約200キロの台車を、急ごしらえのレールの上で押し、炉に入れた。
 「あんなにつらかった仕事はない」。当時、名取市斎場長だった針生俊二さん(68)が振り返る。甚大な被害を受けた同市閖上地区で生まれ育った。知り合いの遺体も多い。涙を隠すため帽子を深くかぶり、マスクを着けた。
 四つある炉で一家4人を火葬したこともある。一家8人という時さえあった。通常は一つの炉で1日2人。あの時は5人を見送った。津波で壊れ、応急復旧させた炉は、1カ月半ほどで約450人の犠牲者を荼毘(だび)に付した。

<土葬回避へ全力>
 震災当日、斎場は友引で休み。針生さんは外出先の仙台市泉区で地震に遭った。閖上地区に戻る途中、自宅の約2キロ手前で迫り来る泥の波を見た。仙台東部道路まで必死で逃げ、のり面を上がれないでいた高齢者や子どもを押し上げた。
 最後に針生さんがよじ登った瞬間、濁流が一気に押し寄せた。間一髪で難を逃れた後の光景は、「津波が車や船を巻き込み、地獄絵図のようだった」。
 斎場にたどり着いたのは震災の2日後。がれきの山を見て復旧に半年はかかると思ったが、いったん土葬した後に掘り出して火葬する「改葬」は遺族を二度悲しませる。土葬はしないという市の方針の下、懸命に復旧に取り組んだ。

<「応援協定必要」>
 海水をかぶった炉は、そのまま点火すると水蒸気爆発を起こす恐れがあり、2日かけて乾燥させた。壊れた点火装置は、ホームセンターで買ったこたつ用スイッチで代用。2週間ほどで何とか再開にこぎ着けた。
 「地元で火葬してもらえて、ありがたい」。遺族は一様にそう言ってくれた。だが、とても感謝されるような場所ではなかった。骨つぼや位牌(いはい)を置く台はビールケースや近くの水田で拾ったテーブルを充てた。遺族は閉店したカラオケ店から借りた椅子に座り、待ってもらうありさまだった。
 「災害は必ず起きる。斎場が被災した場合の応援協定を他市町村と結び、万が一に備えるべきだ」。震災から6年。針生さんは経験を顧みて、そう強く思う。(岩沼支局・桜田賢一)


2017年03月05日日曜日


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