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<回顧3.11証言>施設を開放 災害拠点に

全国から集まったボランティアのテントが並ぶ石巻専修大グラウンド=2011年8月12日、宮城県石巻市南境

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市で、建物や設備への被害が比較的少なかった石巻専修大は震災直後から、災害対応の最前線拠点として役割を果たしてきた。避難してきた多くの市民を収容する一方、ヘリポートや救護所、ボランティアセンターが相次いで開設された。未曽有の事態への対処を迫られた教職員や学生たちは、戸惑いながらも全力で運営を支えた。(東野滋、土屋聡史)

◎石巻専修大の奮闘(上)

<切迫>
 2011年3月11日午後6時半。停電で一帯が暗闇に包まれる中、自家発電の明かりがともる大学に近隣住民ら100人以上が集まってきた。
 大学には既に、地震発生時に実験などをしていた教職員と学生ら計約300人がいた。指定避難所でないため、備蓄の食料や水には限りがある。
 「大学としては学生を守るのが第一だが、人が入れる場所がある以上、知らん顔はできない」
 当時学生部長だった理工学部の山崎省一教授(60)は、教職員が話し合って、避難者の受け入れを決めた理由をこう説明する。
 12日には近隣の避難所に入れない人が押し寄せた。市も避難者の大規模な収容を要請。1日最大約1000人の市民が暮らす避難所が誕生した。
 42万平方メートルの広大な敷地に体育館や多数の教室があり、自家発電も備える。大学は一気に重要拠点となった。
 坂田隆学長(60)は「震災で真っ先に役立ったのが大学の持つ『ハード』だった」と語る。
 市や自衛隊、日本赤十字社などの外部機関が次々と協力を求め、13日にはグラウンドに臨時ヘリポートが完成。15日にはボランティアセンターと救護所が設けられた。
 グラウンドはボランティアがテントを張る用地にもなり、延べ9万人以上が利用した。
 市社会福祉協議会の大槻英夫事務局長(61)は「地震後、広い敷地と頑丈な建物がそろった場所はほとんど残っておらず、大学の存在に助けられた」と感謝する。

<忙殺>
 「避難者」だった教職員や学生は、運営を支えるマンパワーとして動きだすしかなかった。
 増え続ける避難者の教室への誘導、経験の無い避難所運営の補助、情報が錯綜(さくそう)する中での外部機関との調整…。教職員約30人は多忙を極めた。事務課の尾形孝輔さん(30)は「最初の10日間の記憶がほとんど無い。当時のメモを見ても思い出せない」。
 学生も13日朝、残っていた約150人が8グループに分かれ、教職員の手伝いを始めた。トイレなどの清掃や救援物資の仕分け、駆け付けた保護者の応対。作業は山ほどあった。
 床に敷いた段ボールやいすの上での睡眠時間は約4時間だった。風呂はなく、消臭剤を使って同じ服を着る毎日。下着は1週間はいて捨てた。
 地震後に宮城県栗原市の自宅に帰り、12日に大学に戻った理工学部4年の三塚光さん(22)は「被災の体験談に圧倒されたり、責任の重い仕事を任されたりした。1日があっという間だった」と語る。

<一心>
 2011年4月28日、最後まで残った避難者約30人が退去し、大学は避難所の役割を終えた。
 「新学期を控え、別の避難所に移ってもらった。申し訳なかったが、『ありがとう』と言われて救われた」と語る山崎教授。「困難は多かったが教職員も学生も、石巻のために自分ができることをやろうという一心で乗り越えた」と振り返る。=2011年9月1日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


関連ページ: 宮城 社会

2017年03月06日月曜日


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